🕯️夜口原(よぐちはら)
「……今、誰か“ありがとう”って言った?」
それは、風の中に混じったかすかな声だった。
けれど周囲には誰もいない。
ただ夜の高原が、囁くように風を吹かせているだけ。
駅名は夜口原(よぐちはら)。
ホームのすぐ先に、道も街もなく、一面の草原が広がっている。
電灯もなく、月明かりがわずかに足元を照らす程度。
地平線の向こうに、ぽつりと風見鶏のような鉄塔が立っている。
そこへ吹く風は、一定ではない。
ときに冷たく、
ときに生暖かく、
まるで“誰かの息”のように重たい。
この町に降り立ったのは、
芹沢 泉(せりざわ・いずみ)、29歳の朗読劇俳優。
黒のシルエットコートに、深紅のマフラーを首に巻き、
切り揃えた前髪の下から大きな瞳がのぞく。
手には小さな録音機と、古びた台本を抱えていた。
泉は、かつて舞台で声を失ったことがあった。
以来、“他人の声”の感情を読むような朗読を専門としていたが、
心のどこかで「自分の言葉が空っぽ」だと感じていた。
草原を歩いていくうちに、
風がまた、何かをささやいた。
「ごめんね……ほんとうは、君じゃなかったの」
「行かないで……でも言えなかった」
「——それでも、見送ってくれたのは、あなただけだった」
それらの声は、泉がかつて演じたセリフによく似ていた。
けれど、ひとつも“自分のもの”ではない。
草原の中心に近づくと、透明な電話ボックスのような建物が現れた。
中には録音機が大量に吊るされている。
それぞれのラベルには、誰の声かではなく、“誰の記憶”かが書かれていた。
・失恋を告げた声(2006/長野)
・告白を飲み込んだ声(2011/福岡)
・許しを求めなかった声(1998/東京)
泉が近づくと、そのうちのひとつがカチリと落ちた。
ラベルには、こう書いてあった。
「自分の声を失った夜(芹沢泉)」
録音機を再生すると、
そこにあったのは、泉が声を失った直後、震える手で書いた独白だった。
「私は誰かの感情を演じてきた。
でも、自分の声で、本当に“何か”を言ったことなんてあった?」
次の瞬間、風が強く吹き抜けた。
録音機はふっと消え、
泉はその場に、ただ台本だけを残された。
台本の最終ページに、こう書かれていた。
「ここで語った言葉は、誰かの記憶になる」 「あなたはもう、“聞く側”ではいられない」
気づけば、泉は南新宿駅の改札に立っていた。
手元の録音機は空になっていたが、
耳元に、風がこうささやいた。
「今度は、あなたの言葉で。」
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