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その夜は、異様に蒸し暑かった。窓を開けても風は入らず、空気は重く淀んでいる。
体が熱を持ち、脈が早くなるのを感じた。
——もう限界だ。
冷たさに触れたい。
あの手に、触れたい。
そう思った瞬間には、もう縁側に立っていた。
月は雲に隠れ、庭はほとんど闇に沈んでいる。
それでも井戸の位置は分かった。
あそこからだけ、冷たい気配が確かに漂っているからだ。
井戸の縁に近づく。
石の表面が、まるで呼吸しているように湿っていた。
覗き込むと、水面がかすかに揺れている。
そして、いた。
青白い手。
指先が水から半分浮かび、僕を待っていた。
胸が熱くなる。
その熱が手のひらから溶け出す前に、僕は腕を伸ばした。
指先が触れた瞬間、全身に冷たい衝撃が走る。
……気持ちいい。
皮膚が冷え、骨まで染み渡る。
その手が僕の手首を掴んだ。
意外なほど柔らかく、しかし逃げられない力で。
冷たさが腕から肩へ、そして胸の奥へと広がる。
呼吸は浅く、心臓の鼓動が遅くなる。
視界の端で、おばあさんの影が動いた。
叫ぶ声がしたが、遠くで誰かが泣いているようにしか聞こえない。
僕は笑っていた。
「……涼しいな」
足元がふっと浮く感覚。
重力が消え、全身が水に沈んでいく。
耳に届くのは自分の鼓動と、遠くで響く水のざわめきだけ。
暗闇の中、あの手がもう片方の手と絡み合い、僕を抱くように引き寄せる。
冷たさはもう寒さではない。
それは、安心感だった。
翌朝、庭に僕の姿はなかった。
おばあさんは井戸を覗き込み、言葉を失ったという。
水底には、青白い手が二つ並んで揺れていた。
片方は細く白く、片方は——僕の癖のある指だった。