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扉がきしんだ音に、日下部は軽く眉を動かした。
入ってきたのは、彼がよく知る顔だった。廊下ですれ違えば無言で肩をぶつけ、教室では笑いながら机を蹴った相手――いじめの主犯格のひとりだ。
だが、今日は違った。
制服の襟は乱れ、足取りもふらついている。目が合った瞬間、怯えたように視線を逸らした。
「……相談って、ここで合ってる?」
その声に覇気はない。ただ、どこか必死だった。
日下部はうなずき、椅子を手で示す。相手は躊躇いがちに腰を下ろしたが、落ち着きなく指先を膝の上で動かし続けた。
「べ、べつに……なんか特別なことがあるわけじゃねえけどさ。ちょっと、聞いてほしいっていうか……なんか、最近、眠れないんだよ」
自分でも驚いたのか、急に口をつぐむ。日下部は黙っていた。責めもしなければ、突き放しもしない。ただ、そこにいた。
「……なんかさ。自分の声が、夜中に聞こえるんだよ。すげえ、嫌な声。『お前、クズだな』とか、『誰にも好かれない』とか……。頭の中なのか、夢なのか、わかんねーけど。朝起きると、泣いてんの」
彼は笑おうとしたが、口元が歪んだだけだった。
「……俺、どっかおかしいのかな」
その言葉に、日下部は小さく息をついた。だがそれ以上は何も言わず、代わりに机の引き出しから一枚のメモを差し出す。そこには、簡単な生活リズムの整え方と、息が詰まったときにできる呼吸法が書かれていた。
「これ、前にも誰かに渡したやつだろ。……へえ、意外と親切なんだな」
その口調は、いつもと変わらない軽薄なものだったが、受け取る手は震えていた。
日下部は立ち上がり、ドアの前に立った。
「……また来てもいい?」
小さなその声に、彼は何も言わずにドアを開けた。だがそれは、拒絶ではなかった。沈黙のままに許された帰路だった。
廊下の向こうに消えていく背中に、ふと日下部は目を細めた。あの声――「クズだ」とささやく声は、きっと他ならぬ、自分自身が生んだ罪の影なのだろう。
許されるために来たのではない。ただ、自分が壊れていく音を誰かに聞いてほしかった。
日下部の相談室には、今日もまた「正しい手順」では救えない声が、静かに置かれていった。