夜更けの静けさが、息を潜めるように降りていた。
蓮司の部屋には、蛍光灯ではなく間接照明だけが点いている。
机の上に沙耶香のバッグが置かれ、その横で彼女は何も言わず、カップに口をつけていた。
コーヒーの湯気が、彼女の頬を曖昧に照らす。
蓮司は煙草に火をつけ、灰皿の縁を見つめた。
沈黙が続く。
それは気まずさではなく、互いに沈黙を選ぶことに慣れた者たちの静けさだった。
「――あの子、何か言ってた?」
沙耶香が、視線を上げずに問う。
蓮司は短く息を吐いた。
「……さあ。言葉の形はあったけど、意味にはなってなかったな」
「昔からそうだったじゃない。あの子、感情の置き場所が下手なの」
「そういう問題か?」
沙耶香は、肩をすくめた。
まるで、他人の噂話でもしているかのように。
「蓮司、優しいんだね」
その言葉が、わずかに刺さった。
蓮司は顔を上げずに笑った。
「……優しいってのは、逃げ道の言葉だよ。俺がやってるのは、ただの見届けだ」
「でも、見てるってことは、まだ切れてないんでしょう?」
その声に、ほんの一瞬だけ、蓮司の指が止まった。
煙がゆっくりと形を崩す。
「沙耶香、お前は、あの頃のことを何だと思ってる?」
「過去。終わったこと」
「違うな。あれは終わってない。お前が外に出ただけで、まだ続いてる」
沙耶香は初めて顔を上げた。
瞳の奥に、薄く笑みが浮かぶ。
――まるで、それこそが予想していた答えだというように。
「だから優しくなるんだよ、蓮司は。自分の手の中にある罪を、ちゃんと見たがってる」
「……俺は、償うつもりなんてない」
「違う。そうじゃなくて――自分がまだ“同じ場所にいる”って確かめたいだけでしょ」
その言葉の柔らかさが、ひどく冷たかった。
蓮司は煙草を灰皿に押しつける。
火の残り香が小さく弾け、焦げた匂いが立つ。
「お前、相変わらず見透かすのがうまいな」
「昔、そういう役だったから」
沙耶香の笑みが、わずかに翳る。
“役”――その言葉が、彼女の過去をわずかに滲ませた。
誰かのために冷たく、誰かの命令で笑う女。
その記憶を、蓮司は知っている。
「……あの子、今も壊れきらないね」
沙耶香がぽつりと呟く。
「壊れないようにしてるんだろ。あれは、壊されることに慣れてるだけだ」
「違う。あの子、自分が壊れてるって信じてる。だから、助けられるとも思ってない」
沈黙。
その間、蓮司は何も言えなかった。
沙耶香の言葉が、甘いのか、残酷なのか、判別できなかった。
優しさという言葉の裏で、何人もの人間が呼吸を止めてきた。
自分もそのひとりだ――蓮司はぼんやりとそんなことを思う。
「お前は、もう関わらなくていい」
「でも、あなたはまだ離れられない」
「……俺が離れたら、あいつ、もう見つけられない気がする」
それが、唯一の本音だった。
沙耶香は静かに笑う。
その笑いは、優しさではなく、共犯者だけが知る温度をしていた。
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