8月も終わりに差し掛かった午後、綾は自転車で駅へ向かっていた。
自転車を全速力で漕いでいると額から汗が流れてくる。
公園の木々からはミーンミーンという蝉の声が煩いくらいに響いていた。
綾は駅前の駐輪場へ自転車を停めるとカゴにある荷物に手を伸ばした。
その時隣の自転車のハンドルに赤トンボがとまっているのに気付く。群れからはぐれたのだろうか?
空を見上げると真っ青な空が広がっていた。
青空には夏の名残を惜しむように入道雲が精一杯の主張を続けている。
夏の終わりはすぐそこまで来ている。
駅へ行った綾はちょうどホームに滑り込んで来た電車に乗った。
画材が入ったバッグはかなり大きいので邪魔にならないよう奥のドアのポールまで進む。
そして座席の側面にカルトンが入った大きな袋を立てかけるように置くとそこでやっと一息ついた。
吉野綾(よしのあや)は現在高校3年生。夏休みの今は美大受験専門の予備校の夜間コースへ毎日通っている。
電車が目的の駅に近づくにつれ車内の乗客も増えてきた。乗客は会社員や学生が多いようだ。
その時綾は異変を感じた。
足元にあるバッグを守るようにして立つ綾の太腿に誰かの手が触れている。
(!)
その手はゆっくりと綾の太腿を撫で回している。明らかに痴漢だ。
おとなしい綾に大声を出す勇気はない。いや、それ以前に声が出ないだろう。
綾は恐怖で動けずそのまま硬直していた。
綾が抵抗しないのをいいことにその手は徐々に大胆になっていった。
綾の素肌をゆっくりと撫で回していた手は突然生脚を掴む。そしてその柔らかな感触を楽しむように何度も揉んだ後、その手は徐々に内股へ移動してきた。そこで綾は危機感を覚える。
(もう無理っ!)
その時電車が目的の駅の一つ手前に停まった。綾は慌ててバッグを手にすると、
「すみません、降ります」
と声をかけ必死にドアを目指した。そしてなんとか電車を降りる事に成功した。
走り去る電車を見ながら綾はホッとする。そして青ざめた表情のままベンチにへたり込んだ。
その時綾の手はまだかすかに震えていた。
(怖かった……)
綾は先ほどの不快な手の感触を振り払おうと何度もスカートの上から太腿もを払った。
しかし何度払っても嫌な感触は消えない。
その時声がした。
「吉野さん…だよね? どうした? 大丈夫?」
綾が顔を上げるとこちらへ男性が歩いてきた。
男性は綾が通っている予備校講師の曽根蓮(そねれん)だった。
綾はびっくりして咄嗟に口ごもる。
「あっ、はい……だ、大丈夫です…」
綾は震える手を隠しながら言った。
「もしかして痴漢にでもあった?」
「………….」
綾が怯えたように口ごもったので蓮は話題を変える。
「知ってる? この駅から予備校に行けるって」
「えっ? ここからですか?」
「うん。僕はいつもこの駅で降りて歩いてるんだ。良かったら一緒に行く?」
「はいっ」
ここから歩いて行けるならもう電車に乗らなくて済む。そう思うと綾は途端にホッとして元気に返事をした。
しかしその反応から蓮は綾が痴漢にあった事を認識しただろう。しかし蓮はあえて気付かないふりをしてくれていた。
そして歩き始めた蓮に綾はついていく。
各駅停車しか停まらない小さな駅を出るとひっそりとしていた。駅を出るとすぐに住宅街が広がっている。
一つ先の駅は高層ビルが立ち並ぶ巨大ターミナル駅なのにこの辺りはとても静かだ。この町のすぐ近くに高層ビルがあるのが信じられなかった。
綾は初めて足を踏み入れる町に興味津々だ。
そこで蓮が言った。
「この店はパンケーキが美味しいよ。パンケーキの横には山盛りのフライドポテトがついてくるんだ」
蓮は綾の気分を紛らわせるようそんな話をしているのかもしれない。綾はその優しさが嬉しかった。
「パンケーキ好きなので今度行ってみます」
「うん。でも結構お腹いっぱいになるよ」
蓮はそう言って笑った。
蓮の斜め後ろを歩く綾は他人からはどういう風に見られているのだろうか?
今は夏期講習だから私服で通っているが、普段は学校帰りに予備校へ行くのでいつも制服姿だ。
その制服姿を見て以前他の講師からこんな事を言われた事がある。
「吉野さんが制服を着ているのを見ると驚くなー。本当に高校生だったんだね」
その講師は山内大夢(やまうちひろむ)と言って女生徒の間では一番人気のイケメン講師だった。
喋り方はざっくばらんで髪は茶髪のロン毛、いつもお洒落なファッションに身を包むいわばアイドルのように華やかな講師だった。そんな山内に言われたので綾は戸惑う。
(それって老けて見えるって事?)
あまりにもショックでその事を予備校仲間の美愛(みあ)に話すと、
「違うよー、それは大人っぽいって褒められたんだよ、いいなー」
と羨ましがられた。
もし山内の言う通りに綾が大人っぽく見えるのだとしたら、今蓮と歩いていて恋人同士には見られないだろうか?
そう考えると綾はドキドキする。
綾が通う予備校の講師はほとんどが美大の大学生や院生だった。多感な時期の高3の女子生徒にはそれぞれ推しの講師がいた。
もちろん美愛は山内先生推しだ。
美愛はたまたま使っている路線が山内と同じだったので帰りはいつも山内と同じ電車に乗りたくて追いかけて行く。
その健気さは見ていてとても可愛らしい。
一方、綾は今一緒に歩いている曽根蓮推しだった。
実は綾は予備校に入った当初から蓮に片思いをしていた。
蓮は現在美大の4年生だった。来春卒業予定だがその後は大学院へ進む事が決まっている。
蓮は山内とは正反対のタイプで、髪は黒髪の短髪、服装はいつもジーンズに黒のポロシャツが定番だ。
性格も山内とは真逆で物静かなタイプ。しかし美術指導に関しては常に的確で生徒に対しての語り口はいつもソフトで優しい。
そんな蓮に綾はずっと恋をしていた。
だから綾は蓮に会ってからずっと心臓がドキドキしている。
こうして蓮と並んで歩いているだけで心臓の音が耳に聞こえてくるようだ。
トクン トクン
その音は鳴りやむ気配がない。
その時少し斜め後ろを歩く綾に気付いた蓮が歩く速度を緩めてくれた。そして二人は並んで歩き出す。
並んで歩く綾のバッグをチラリと見た蓮は綾にこう聞いた。
「吉野さんはバッグもペンケースもハンカチも……全部星柄だよね? 星好きなの?」
その時綾は蓮が綾の持ち物の柄を覚えていた事に驚く。
綾は子供の頃から星が大好きだったので身の回りの小物は全て星の柄で統一していた。
100円ショップに行くと必ず星柄を探し、もし売っていれば必ず購入する。それほど星が好きだった。
美愛にだって星グッズで揃えている事を指摘された事はないのに、今確かに蓮は言った。
それだけで綾は天にも昇るような気持ちだった。
「星は大好きです」
「じゃあこの前のペルセウス座流星群は観た?」
「はい、今年は条件良かったですよね? 家のベランダからでもいっぱい観えました」
「そっか。僕はちょうどその時長野の高原にいたんだ。だから沢山の降るような流星が観えたよ」
蓮はそう言って微笑んだ。
(降るような流星ってどんな感じなの? 先生は誰と高原に行ったの?)
綾は心の中で呟く。
予備校に到着すると二人は館内で別れた。蓮はそのまま教員室へ向かった。
綾はまだ心臓の音をトクン トクンと鳴らしながら自分の教室へ歩いて行った。
コメント
9件
フレッシュな綾ちゃんと蓮さんの恋物語💗 ノルノルもらびちゃんや華子さんたちと同じく新たな気持ちで読ませていただきますね👩❤️💋👩💕
瑠璃マリさん、すみません😣 「そんな山内に言われたので杏樹は戸惑う」 ↓ 「綾は戸惑う」 かと🙇
らびぽろさん、華子さんと同様、新たな気持ちで読ませていただきます✨