この日の実技はデッサンだった。
まだあまり人がいないのでほとんどの席は空いている。だから自分が描きたい構図の場所を自由に選べた。
(ラッキー!)
綾は気に入った場所を見つけると荷物を置き早速イーゼルの上にカルトンを載せ画用紙を固定した。
そして足元に置いた星柄のぺンケースから鉛筆を取り出しカッターで削り始める。
鉛筆の削りかすが広げたティッシュの上にハラハラと落ちていくのを見るのは楽しい。
綾が鉛筆削りに集中していると声がした。
「綾、おっはー」
「あ、美愛おはよう」
「隣空いてるよね? じゃあここにしようっと」
美愛は綾の隣に座ると準備を始めた。
美愛とは高2の時にこの予備校で知り合った。もちろん高校は別の高校だ。
美愛は私とは正反対で守ってあげたくなるような可愛らしいタイプの女の子だ。美愛といつも一緒にいるから私はおとなびて見られるのだろうか? ふとそんな風に思う。
その時チャイムが鳴った。
数分後、この教室の担当講師が2名入って来た。
今日の講師は女生徒に大人気の山内、そう、綾の事を「大人っぽい」といったあの講師だ。
そしてもう一人は曽根蓮だった。蓮はいつもと変わらない様子で入って来た。
(……当たり前だよね、さっきの事は先生にとっては何でもない事なんだもん)
綾は少しがっかりしている自分に気付く。
そしてデッサンの授業が始まった。
室内には一斉に鉛筆のサラサラという音が響き始めた。綾は構図を決めてから大まかにモチーフの輪郭を取る。
今日のモチーフはワインの瓶、ワイングラス、それにリンゴとオレンジだ。そしてモチーフの下には滑らかな白い布が敷かれ少し皺が寄っている。結構難しそうだ。
綾はガラスの瓶を描くのは得意だったがリンゴの質感にはいつも苦労する。
しかしリンゴは受験の時によく出てくるモチーフなので今日はなんとかマスターしたい。
30分ほど経つと、講師2人が生徒一人一人を回りアドバイスを始めた。
向こう側は山内、そして綾がいる方には蓮が回り始める。
それに気付いた美愛ががっかりしたように言った。
「山内先生はあっち側かぁ」
明らかに落胆している。なぜか美愛は山内が回る反対側に座る事が多かった。
一方綾はドキドキしていた。
自分の絵を蓮に見てもらえるのは嬉しかったが綾は蓮に絵を見てもらうといつも緊張して声が上ずってしまう。
もちろん心臓は胸が張り裂けそうなくらい高鳴る。
一人、二人と指導を終えた蓮はいよいよこちらに近付き綾の隣にいる美愛にアドバイスを始めた。
蓮は右手に持った鉛筆で美愛のデッサンに修正を加えていく。
その的確で力強い手の動きが綾は好きだった。
「パースが少しずれているね。もうちょっと…そうだな、これくら角度をつけるのが正解かもしれない」
蓮はスーッスーッと美愛のデッサンに線を入れていった。
そしてをある程度美愛のデッサンを整えた蓮は、手を止めると美愛の横から立ち上がった。
「こんな感じで続けてみて」
「先生っ、ありがとうございます」
その時綾の心臓は破裂寸前だった。次は自分の番だ。
蓮は綾の一歩後ろに立つと無言でデッサン全体を見つめる。
その後綾の隣にしゃがみ込んでからこう言った。
「吉野さんはなかなかいい感じだね。パースのズレもないしガラスの質感も良く出てる。あとはリンゴかなぁ? リンゴは前に苦手って言ってたよね?」
「あ、はい…….」
(えっ? 先生覚えてくれてたの?)
綾の心臓の音はさらに大きくなる。
トクン トクン トクン
綾の頬は紅潮し声はかすかに上ずっていた。おそらく蓮も気付いているだろう。
しかし蓮はいつもと変わらず落ち着いた口調で指導を続けた。
綾の肩越しから絵を覗き込んだ蓮は、右手に持った鉛筆で綾の書いたリンゴの上に新たな線を加えていく。
シャーッ シャーッ シュッ シュッ
その迷いのない手の動きは見ていて惚れ惚れする。
しかし蓮の顔がすぐ近くにあるので綾は集中出来ずにいた。
もしこの状態がずっと続いたらきっと気を失ってしまうかもしれない……それほど綾は緊張していた。
一方蓮はそんな綾の事を気にする様子もなく的確なラインをリンゴに加えていく。
蓮の書いた線が一本一本加わるごとに、ぼんやりと立体感のなかったリンゴがみるみる存在感のあるリンゴへと変化していった。まさに曽根マジックだ。
(すごい……ほんの少し手を入れただけでこんなに変わるの?)
綾は驚いていた。
そして蓮の魔法のような手の動きに見とれていた。
ある程度の方向性を示した後、蓮は手の動きを止めてから言った。
「こんな感じかな? 繊細な線ばかりで表現しようとするとどうしても平面的になっちゃうから思い切って強弱をつけてごらん」
「は、はい。ありがとうございました」
綾は上ずった声で返事をした。その瞬間蓮はフッと笑ったが綾は気づいていない。
蓮は綾の足元にある星柄のペンケースをチラリと見た後、次の生徒が座っている場所へ移動した。
綾の心臓のドキドキは漸く少しずつ収まってきた。
コメント
9件
綾少しがっかりしている 綾は少しがっかりしている でしょうか。 マリコ先生のお話は絵を描くシーンが多いですよね。 読んでると何か描きたい気持ちがウズウズして来ます。
美術系の予備校はこういう感じなんですね~🖌️絵心がないもんで、絵が描けるって羨ましい💕 綾ちゃんのドキドキ💓 うんうん、青春だわぁ~✨❇️✨
綾ちゃんの紅潮した頬はモチーフの林檎🍎のように可愛かったよね🥰 きっと蓮先生はその気持ちに気付いてて先生も…だって星柄のペンケースをチラリしてるし、綾ちゃんのドキドキ様子をみてフッて笑ってるし… 綾ちゃんも美愛ちゃんも実といいね♡*。+