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『それはやめた方がいい』
そう言われたティアは、ずっと”良い子”で居続けた自分の化けの皮をむしり取るようなことを言われて、怒りにも似た感情を覚えていた。
「よりにもよって、あなたがそれを言う!?」と八つ当たりすらしたくなる。
でもそれは、自分のことをちゃんと見てくれていた何よりの証拠でもあり、娼館育ちの、3年前ちょっとだけ関わりを持っただけの自分のことを、気に掛けてくれたということだ。
ティアは怪我の治療をしてもらった時よりも、帰路の途中でクッションを買い与えて貰った時よりも、梨を剥いてくれたときよりも──今が一番、嬉しかった。
死ぬ時を選べるなら、今が良いと思えるほど、全身が喜びで震えた。
(もう十分だ。っていうか、これ以上与えられたら嬉しすぎて死んじゃうかも)
そんな気持ちを抱えているティアの頬に手を当てたまま、グレンシスは再び言葉を紡ぐ。
「我慢することは、悪いことじゃない。我慢ができない人間のほうがよっぽどタチが悪い。だがな、駄目とか嫌と言われるくらいなら、はなから我慢した方が良いと思うのは違うぞ」
パンにバターが染み込むように、グレンシスの言葉はティアの心の深い部分に染み渡る。
ティアはこくりと頷いた。そうすることしかできなかった。
「それに、なにも自己主張ができない人間になってしまえば、肝心なときに何も言えなくなってしまうものだ。確かに拒まれれば、胸が痛む。拒絶されるのは、誰だって怖い。だがな」
変なところで言葉を止めたグレンシスに、ティアは伺うように目を合わせた。
視線がきちんと合えば、グレンシスはとても柔らかい表情を浮かべた。
「俺はお前の要求を拒むことはしない。絶対に」
ああ、多分、今のこの言葉は見えない宝石だ。
そうティアは思った。真珠より、ダイヤモンドより、サファイアより美しく永久に輝く言葉だと思った。
「……はい」
こんな身の丈に合わない素敵すぎるものを貰ってしまったティアは、やっぱりこれも頷くのが精一杯だった。
両手を胸に合わせてぎゅっと押さえる。まるで、これは自分だけのもの。と、大切に抱え込むように。
ティアの言葉も仕草も、とても短いものだったが、グレンシスはちゃんとわかってくれたようで、大きな手をティアの頬から頭に移動して、ぽんぽんと軽くたたいた。
でも、話はこれで終わりとはいかなかった。
「よしっ。なら早速、何かワガママを言ってみろ」
「はい!?」
思わぬ流れになって、ティアは素っ頓狂な声を上げた。
ピチチッチチッピチッと小鳥の迷惑そうな声が聞こえてきたが、ティアはそれを無視して2歩、後ずさる。
けれどグレンシスは、たった一歩で距離を詰め、普段の不遜な態度に戻ってしまった。
「何事も、日頃の鍛錬が大事なんだぞ」
剣術の稽古のように言われ、ティアの顔が引きつる。
それなのにグレンシスは、さあさあ何か言えと、無言の圧力をかけてくる。多分、この騎士様がせっかちなのは、死ぬまで治らない不治の病なのだろう。
残念ながらこの病は、移し身の術をもってしても癒せないので諦めるが、ワガママを言えという無茶ぶりはとても困る。
窮地に追い込まれたティアは、情け容赦無いグレンシスをジト目で睨もうともしたけれど、その直前、頭上から甘酸っぱい香りが降ってきた。
救いを求めるように見上げた先には、スモモの木があった。今が食べごろと言わんばかりのたわわな果実もぶら下げている。
「じゃあ………あ、あれっ、あれを取ってください」
甘酸っぱい香りのスモモを指さして、ティアが要求を口にした。
グレンシスは笑って頷くと背伸びをすることなく手を伸ばしかけて、やめた。
「ほら、自分で取ってみろ」
脇に手を入れられたと思ったら、ふわりと身体が浮いた。
「へ?……ぅひゃっ」
急に視界が高くなり、思わず足をばたつかせてしまったティアを、グレンシスは危ないと窘める。
「遊ぶのは後にしろ。早く選べ」
遊んでなんかいないし、危ないのはこっちの台詞だ。
むっとするティアだが、すももをもぎ取らなければ、この状況はいつまで経っても変わらない。
なにせグレンシスは騎士だ。人並み以上の体力と筋力をお持ちの彼は、日が暮れてもずっとこうしているだろう。
想像しただけで、ゾッとしたティアは急いで果実をもいだ───2つ。
「取りました」
言うが早いか、そっと地面に降ろされたティアは、すかさずグレンシスにその一つを差し出した。
「どうぞ」
持ち主に差し出すのも何だか変な気がしたが、グレイシスは嬉しそうに受け取ってくれた。
「ありがとう」
逆光でもないのに、眩しそうに目を細めるグレンシスは、そのまま手にした果実を口元に運ぶ。
いきなり齧るなんて豪快だ。そんなことをティアが思った矢先、グレンシスは白い歯を見せることなく、唇に弧を描いたまま、すももにそれを押し当てた。
「っ……!」
まるで赤紫色に熟したすももが自分のように思えて、ティアの頬は熟れたリンゴように真っ赤に染まる。
恥ずかしさのあまり両手で頬を挟んで俯けば、くすりと甘い笑いが降ってきた。
(無自覚に翻弄しないでっ)
まったくもってイケメンとは罪である。息するだけで犯罪である。存在が罪深い。
そんなふうに心の中で悪態をつくティアを無視して、グレンシスはとんちんかんなことを口にした。
「やっぱり、果物だけではそう簡単に体重は増えないか……」
とてつもなく失礼なことを言ったグレンシスだけれど、なぜかティアはムッとした表情にはならなかった。
もうグレンシスが、顔に似合わず不器用な一面があることを知っているから、顔を上げ、苦笑を一つ浮かべるだけで済ますことができる。
ただ、もっとご飯を食べるという約束はしなかった。
ティアは、できないことをおいそれと口にすることは、また別の事だと知っているから。
すももの花言葉は甘い生活。まさに、今のティアとグレンシスの生活のよう。
……けれども、誤解や困難といった負の意味の花言葉の意味も持っていたりする。