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2日後、ティアは小鳥の歌声で目を覚ました。
ぼんやりとベッドに横たわったまま視線を動かせば、隣にいる大小のクマの縫いぐるみたちは、いつも通り添い寝をしてくれている。
ティアは枕に頭を乗せたまま、クマたちをそっと撫でる。クマの首に巻いてある2色のリボンには気付いているけれど、そっと目を逸らす。
それから身体を起こして、ベッドの端に腰かける。絹の寝間着は、いつまで経っても慣れない。
視線を窓に向けると、カーテンの隙間から一本の筋のように、清々しい朝の光りが差している。真っすぐに伸びた光の線をティアは、ぼうっと見つめた。
数分後、ティアは迷いを振り切るようにぎゅっと目を閉じて、強く首を横に振る。次いで目を開けたと同時に、怪我をしている方の足首に手を伸ばした。
……しゅるしゅる、しゅる。ティアは無言で足首の包帯をほどいていく。
左右の足首を比べても、違いはない。腫れていた箇所を指でつついてみても、痛みはない。
今度は恐る恐る、床に立って窓側まで歩く。意識して、いつも通りに。2歩目まではぎこちなかったけれど、3歩目からは普段通りの歩き方ができた。
「よし、帰ろう」
カーテンを勢いよく開けて、ティアは宣言した。
熱も下がったし、足の怪我も治った。すももも食べたし、美味しかった。
だからもう、ここに居る理由はもうなくなった。何より本日は、晴天。絶好のお別れ日和だ。
思い立ったが吉日ではないけれど、ティアは今日、メゾン・プレザンに戻ることを決めた。
ただ一つ、思わぬ誤算があった。
ここに留まることを決めたのは自分だから、去るのも自分で決めることができるとティアは思っていた。けれど、そうじゃなかった。
*
扉を破壊せんばかりの勢いで開けたグレンシスは、ティアを見るなり血相変えて口を開いた。
「使用人が、お前に何か失礼なことでも言ったのか!?それとも、部屋が気に入らなかったのか!?まさかバザロフ様が、今すぐここから離れろとでも言ったのか!?」
「まさかっ」
ティアは目を丸くして、聞かれたこと全部を否定した。
なにがどうなったら、グレンシスがそんな思考回路になるのか、ティアはまったくもって意味が分からない。
メゾン・プレザンに戻るためにティアがそそくさと荷造りを始めた頃、メイドのミィナが朝のお茶を持って部屋に訪れた。
『おはようございます。良く眠れましたか?……っ!!』
朗らかな挨拶をして入室したミィナだが、すぐに笑みを消して私物を鞄に詰め込むティアを2度見した。
『あの……ティア様、どこかへ、お出かけですか?』
『え?えっと……本日、実家に帰らせていただきます』
素直にティアが答えた途端に、ミィナは悲鳴を上げて手にしていたお茶一式が入ったトレーを持ったまま、廊下へと消えた。
それからすぐグレンシスが慌てた様子で部屋に飛び込んで来て、さっきの的外れな質問を頂戴したのだ。
「ミィナさん……いえ、皆さんには、本当にお世話になりました。私のほうこそ、失礼が多々あったと思いますのに、良くしていただいて感謝の気持ちしかありません。それに、バザロフさまは、ゆっくり養生しろとおっしゃってました」
納得できない様子のグレンシスに、ティアは一つ一つ丁寧に説明をするが、なぜミィナがあんな大げさなリアクションを取ったのか、未だにわかっていない。
グレンシスは今、長期間の任務が終わって休暇中だ。その期間がいつまでなのかはわからないが、ずっと自分がいるのはに迷惑だろう。ゆっくり休暇を満喫したいはず。
(なのに……どうしてこんなに慌ててるの?)
わからないことだらけのティアは、軽い頭痛を覚えて、こめかみを揉んだ。グレンシスが何一つ納得してくれていないのも原因のひとつだ。
そんなティアの仕草を、グレンシスは何か言いたげに見つめていた。手に、あるものを持ったまま。
それを一旦、ポケットにしまったグレンシスは、溜息を吐きながら口を開く。
「なら、ここを離れるのは、こんな急じゃなくっても良いだろう?」
苛立つ感情を押さえてグレンシスが問えば、ティアはしつこいと言わんばかりの表情になる。
「怪我も治りましたし、体調もすこぶるいいです。これ以上ここでお世話になる理由がありません。それに……こんなに至れり尽くせりの生活を送っていては、娼館に戻った後、自分が辛くなります」
お城のように、ピカピカに磨かれたまぶしい部屋。日当たりが良く、木のぬくもりが感じられる調度品。温かみのある壁紙。
そのどれもが、ティアは好きだった。だからグレンシスから『そろそろ帰れ』と言われることに怯えていた。
居心地よさを、暖かさを、優しさを感じるたびに、ティアは背中に刃物を突き付けられるような恐怖を感じていた。
そして、もう限界だった。幸せながらも怯えて暮らす日々に。
だからもう、引き留めないで。そんなニュアンスを込めて、ぴしゃりと言い切ったティアに、グレンシスは少しだけ眉を上げた。
「なら、戻らなければいい。ずっとここにいればいいだけの話だ」
「は?」
すかさずティアは間抜けな声を出した。
本当にグレンシスの言いたいことがわからなくて、ティアは、もう一度、胸の内で咀嚼してみる。
結果、もう一度「は?」と同じ言葉を繰り返していた。
グレンシスといえば気を悪くした様子はないが、今にも泣きそうで、それでいて切実な何かを求める表情になった。
「俺は、お前がずっとここにいることを望んでいる」
「っ……?」
ティアは間抜けな声を出す代わりに、首を傾げた。
「俺が何を言いたいか、伝わっていないようだな」
「はい。申し訳ありません」
「な……っ」
食い気味にティアが答えると、グレンシスは知らない場所に瞬間移動してしまったかのように唖然とした。
けれどすぐ、片手で顔を覆って大きく息を吸って吐く。肩まで上下している様子からして、相当感情を押さえ込んでいるようだ。
待つこと、しばしば。グレンシスは顔を覆っていた手を離して、ぎゅっと握りこぶしを作った。とてつもない覚悟を決めたように。
「俺と結婚してくれ。ティア」
「……は?」
おおよそ求婚の返事とは思えない言葉をティアは紡いだ。表情は死んでしまったかのように動かない。気絶しなかっただけ褒めて欲しい。
ほとんど動かない思考で、ティアはグレンシスが突拍子もなく自分に求婚した理由を考える。思い当たるのは、これしかない。
「あの………えっと、薬湯の口移しは救命行為ですので、お気になさらず。私も忘れますから」
「そうじゃない」
「なら、なぜ───」
「お前が好きだから」
「はい!?」
ティアの言葉を遮ってグレンシスが放った言葉は、想像を絶するものだった。
告白を受けた本人は飛び上がらんばかりに驚いた。いや、本当に飛び上がった。
その拍子に、トンッ、と背中に何かが当たった。 びくりと身体を強張らせて振り返れば、ただの壁だった。ティアは安堵の息を吐く。
「ティア、こっちを向いてくれ」
どうやらグレンシスには、話を逸らされたかのように見えたようだ。
切実に懇願するグレンシスの口調に抗えず、ティアは長い時間をかけて、首を元の位置に戻した。
そうすれば、傷の痛みに耐えているかのような辛そうな表情を浮かべるグレンシスが、じっとティアを見つめていた。
「お前、俺の気持ちに、かけらも気付いてなかったようだな?」
「………申し訳ありません」
呻くように問われ、ティアは項垂れることしかできない。
本音を言うと、ちょっとは『もしかして?』と思う部分があった。ちゃんと気付いていた。
けれど、全部気のせいという言葉で、覆い隠し続けてきた。勘違いするほど惨めなものはないから。
「ごめんなさい」
グレンシスの問いに嘘を吐いた罪悪感で、ティアは頭をより深く下げて、もう一度謝罪の言葉を紡ぐ。
「やめろ。頼むから、謝るな。これほどみじめな気持ちになったのは産まれて初めてだ」
グレンシスは、そのまま虚無の深淵に転落してしまいそうな表情を浮かべ、そう呟いた。