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相談室の空気は、午後の光の中でじんわりと静まり返っていた。 椅子に腰を下ろした少女は、机に置いた手を強く握りしめたまま、目を上げられずにいる。
 「……進路調査票、渡されたんだ」
 しばらく黙っていた彼女が、ようやく口を開いた。
 「周りはみんな、“この高校に行きたい”とか“将来は看護師になりたい”とか書いてて……。でも、私、何も書けなかった」
 遥は椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
 「……あるあるだな」
 彼女は驚いたように遥を見た。
 「あるある、なの?」
 「うん。俺も書けなかったよ。教師に“やる気がないのか”って言われて、親には“現実から逃げてる”って言われて。……でも、やりたいことなんか出てこなかった」
 少女は小さく息を吐く。
 「そう、そうなんだよ。なんか……“夢を持て”って言われても、空っぽなの。何やりたいか、わかんない」
 遥は机の上で指をトントンと鳴らす。
 「俺もさ、夢とか目標とか、キラキラしたの持てなかった。周りは“夢がある=いいこと”みたいに言うけどさ、俺にとっては“夢がない=生きてる意味ない”って責められてるみたいだった」
 彼女の視線が揺れた。
 「……そう。責められてるみたい、っていうの、わかる」
 遥は少し笑った。
 「夢なんか、持ちたくても持てないときは持てない。……それに、進路って、夢を叶えるためのものじゃなくて、“とりあえず生きるための場所”を探すことでもあるんじゃない?」
 少女は机に額をつけるように俯いた。
 「……でも、それって逃げてるだけじゃないの?」
 「逃げて何が悪いの。生き延びるために逃げるのは、当たり前だろ」
 遥の声は淡々としていたが、どこか刺さるものがあった。
彼女は顔を上げ、口を開きかけて、また閉じた。
――生き延びるために逃げる。そんな言葉を、誰からも聞いたことがなかった。
 「俺さ、教師に“どうして何もやりたいことがないんだ”って責められたとき、頭の中でずっと思ってた。……“やりたいことがなくても、生きてちゃダメなのか”って」
 少女はしばらく黙り込んだ後、小さな声で言った。
 「……ダメじゃない、よね」
 「ダメじゃない」
遥が即答する。
 「今やりたいことがなくても、とりあえず“マシな場所”を選ぶ。それでいい。俺はそうしてる。……生き延びた先で、いつか見つかるかもしれないし、見つからなくても、生きてる意味は消えない」
 相談室の中で、長い沈黙が流れる。
少女は唇をかみしめ、目元を指で押さえた。泣きそうだったが、泣きたくはなかった。
 「……ありがとう。少し、呼吸できる感じがする」
 彼女はようやくそう言って、席を立った。
 扉が閉まる音を聞きながら、遥は深く息を吐く。
――自分に言い聞かせてるだけかもしれない。進路に答えなんかない。夢なんて見つからないかもしれない。
でも、“逃げてもいい”と言えることで、少しだけ誰かの肩の荷が下りるのなら、それでいい。