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放課後の教室は、もう誰もいない。机の上に残されたプリントが、冷たい風に揺れている。
カーテン越しに差す夕陽が、床のほこりをきらめかせていた。
「……怒るのが怖いんです」
目の前の子が、両手を握りしめたまま言った。
「誰かにムカついても、言えない。
言ったら、嫌われる気がして」
遥はうなずく。
「我慢してるうちに、苦しくなる?」
「はい。
でも、誰も責められないんです。
“私が悪いんだ”って思う方が、楽だから」
“楽”という言葉が落ちた瞬間、
遥の胸の奥で、かすかに何かが軋んだ。
「……楽、か」
「はい。怒ったり泣いたりしても、何も変わらないなら、
自分が我慢してた方が早い気がして」
窓の外から部活の掛け声が聞こえる。
その明るさが、相談室の沈黙をより濃くしていた。
遥は、机の端に視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「俺も、そうしてたよ。
怒ることも泣くこともできないとき、
自分を責めるしか、逃げ道がなかった」
相談者が、驚いたように顔を上げる。
「でも、それを繰り返すと、
本当の“痛みの理由”が、どんどん見えなくなる。
誰のせいでもないことまで、自分のせいにしてしまうんだ」
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
「……たぶん、少しずつ“責めない時間”を作ること」
「責めない、時間?」
「たとえば、好きな音楽を聴くとか、
空を見上げて、何も考えないとか。
そういう瞬間を、自分に許すこと。
それができるようになったら、
怒りとか涙の奥にある、“本当の気持ち”が見えてくるかもしれない」
彼の声は淡々としていたが、
その静けさの中に、痛みの跡が滲んでいた。
「……俺もまだうまくできないけどな」
そう付け足して、遥は苦笑した。
少女はしばらく黙っていたが、
やがて、かすかに息を吸いこんだ。
「“責めない時間”、か……」
その言葉を口の中で転がすように、
小さく頷いた。
外の空は、薄紫に変わっていた。
誰も責められない優しさと、
自分を責めてしまう痛みのあいだで、
夜がゆっくりと始まろうとしていた。