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夕方の校舎は、部活の掛け声と、どこか遠くで鳴るボールの音だけが残っていた。
薄暗い廊下に、相談室のドアだけがぽつんと光を漏らしている。
ノックの音は、ほとんど風の揺れと変わらないほど小さかった。
「入れよ」
中から聞こえてきた蓮司の声は、いつもの調子で飄々としている。
怒ってもいないし、優しくもしない、浮いているような声。
ドアがゆっくり開き、一人の高校生が顔をのぞかせた。
肩をすぼめ、靴音も立てないまま入ってくる。
「……あの、相談……してもいい?」
蓮司は椅子を揺らしながら、指先で机を軽く叩いた。
「話したいなら、勝手に話せよ。止めねぇから」
それで、少年は少しだけ息を吐いた。
「……俺さ、普通になりたかったんだよね。
でも、最近もう、普通って何かも分かんなくなってきた」
蓮司はペンを遊ばせる手を止めず、視線だけを向けた。
「何があった?」
少年は机の縁をなぞるように指で触れ、言葉をゆっくり探す。
「周りのやつってさ、自然にできるじゃん。
ちゃんと仲良い友達いて、部活で笑ってて、
休み時間になったら当たり前みたいにグループのとこ行って……
なんか、そういうの全部“普通”って感じじゃん」
蓮司は「ふーん」と曖昧にうなずく。
「俺、ああいうの直視できないんだよ。
見てると息が詰まる。
眩しすぎて、俺が入っちゃいけない場所みたいで」
少年は目を伏せた。
言葉をこぼすたび、体が小さく縮んでいく。
「怖いんだよ。
あいつらは何も考えずに“普通”でいられるのに、
俺だけずっと変な位置に立ってるみたいで……
輪にも入れないし、一人でいるのも見られたくないし。
普通でいたいだけなのに、普通のやつらが眩しくて見られない」
蓮司はしばらく黙ったまま、椅子を揺らす。
ゆっくりとしたその揺れの音が、少年の呼吸の乱れを落ち着かせていく。
「……で?」
蓮司がようやく口を開く。
「眩しいなら、無理に見続けなくていいだろ」
少年は瞬きをした。
「……逃げろってこと?」
「別に逃げたいなら逃げりゃいい。
それか、眩しすぎて見られねぇなら、わざわざ見張ってる必要もねぇって話」
少年は下唇を噛む。
言い返したいわけじゃなく、意味を噛みしめているように。
蓮司は机の上のファイルを指先で弾いた。
「“普通”なんてさ。
外から見たら整って見えるだけで、中身なんて全員バラバラだぞ。
あいつらも、自分がどんな顔して生きてるかなんて分かってねぇよ。
お前だけ特別おかしいわけじゃねぇ」
少年はうつむいたまま、少しだけ息を吸った。
蓮司は、言葉を淡々と置くように続ける。
「それに、眩しいって思えるってことは、
お前が“普通のやつら”見て、ちゃんと憧れてんだよ。
目の前の光が見えるってのは悪くねぇ。
ただ直視できねぇだけで」
少年のまつ毛がかすかに揺れた。
「……俺、普通になれるのかな」
蓮司は小さく笑った。
馬鹿にしたようでもなく、慰めるでもなく、かるい風みたいな笑い方。
「知らねぇよ。
けど、普通なんかになる前に、お前がどういたいかくらい決めろよ。
“普通”の真似して苦しくなるとか、ダサいだろ」
少年は、うっすら笑った。
悲しい笑いじゃない。
苦しさの奥に、少しだけ呼吸が戻ったような表情。
蓮司は椅子を回し、窓の方へ視線を向ける。
「……まあ、眩しいもんは、いつか慣れる。
今は見えなくていいだろ」
少年は静かに立ち上がった。
来たときよりも、足取りは確かだ。
「……ありがと。少し……ましになった」
蓮司はまた、飄々とした声で言う。
「そりゃ良かったな。帰り遅くなるぞ」
ドアが閉まる。
夕陽が完全に沈む前の、淡い光が相談室の中に溶けていく。
音もなく、息だけが軽くなっていた。