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第17話『満月の夜の“特別席”』
猫又亭には、誰も知らない“もう一つの席”がある。
店の奥、障子の向こう。
普段は物置のように見えるその空間は、満月の夜だけ、ひっそりと灯りがともる。
その席に座れるのは——
「もう一度だけ、会いたい人がいる客」だけだ。
*
その夜、鈴の音とともに入ってきたのは、背筋の伸びた初老の男性だった。
グレーのスーツ。丁寧に磨かれた靴。
だが、その目の奥には長い孤独が滲んでいる。
「……今日は、満月でしたね」
たまがそう言うと、男性はわずかに目を細めた。
「ええ。だから、来ました」
彼は迷わず、奥の席を指さす。
たまは何も聞かない。
ただ、静かに道を開ける。
看板猫のクロが、ふわりと先導するように歩き出す。
そのしっぽは、ゆっくりと二つに揺れていた。
*
席に着いた男性が頼んだのは、あんみつ。
「妻が好きだったんです」
その一言だけで、十分だった。
たまは二人分のあんみつを用意する。
黒蜜をかける音が、やけに優しく響く。
窓の外、雲が流れ、
やがて丸い月が顔を出す。
その瞬間。
向かいの席に、誰かが座った。
若い頃のままの姿。
柔らかく笑う女性。
男性の呼吸が、止まる。
「……久しぶりだ」
声は届かない。
触れることもできない。
それでも、彼女は確かにそこにいる。
男性は震える手で、もう一つのあんみつを彼女の前へ押し出す。
「ほら。好きだったろう」
彼女は、いたずらっぽく目を細める。
昔と同じ、からかうような笑顔。
時間が巻き戻る。
新婚の頃。
狭いアパートで分け合った甘味。
忙しい日々の中で交わした、ささやかな約束。
「先に逝くなんて、ずるいな」
ぽつり、とこぼれた言葉。
彼女は首を横に振る。
そして、口の形だけで言う。
——ありがとう。
男性の目から、静かに涙が落ちる。
「言えてなかったな……」
ありがとうも、ごめんも、
最後は何も言えなかった。
病室で握った手のぬくもりだけが、今も残っている。
月が、雲に隠れる。
気配が、ふっと消える。
向かいの席は、空だった。
あんみつは、ひとつ分だけ減っている。
*
男性はゆっくり立ち上がる。
「……もう十分です」
その声は、来た時よりも少し軽い。
「ちゃんと、見送れなかった気がしていた。
でも——今日、きちんと、別れられた」
たまは、静かに頭を下げる。
「満月の席は、“呼び戻す”ためではなく、
“送り出す”ためにありますから」
男性は外へ出る。
夜風がやわらかい。
見上げた空の月は、少しだけ欠け始めていた。
満ちるものは、やがて欠ける。
けれど、消えるわけではない。
記憶は形を変えて、胸に残る。
*
店内では、クロが丸くなる。
奥の席の灯りは、いつのまにか消えている。
たまは空の器を片付けながら、そっと呟く。
「おかえり、も。
さようなら、も。
どちらも、同じくらい大切な言葉だよ」
猫又亭の満月は、
今夜も誰かの未練を、優しくほどいていく。
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