「やっぱり……退職届書いてもいいですか」
エレベーターの扉が閉まるなり、私はため息交じりに言った。
「昨日の今日でなんだよ」
「課長のせいですよ! あんなにあからさまな態度‼」
「満井と交代してもらっただけだろ」
月曜の朝の備品納入業務は私と満井くんの担当なのに、今朝は築島課長が満井くんの代わりに自分が行くと言い張った。
「特別忙しくもないのに、わざわざ課長が買って出る仕事じゃないでしょう」
「部下の仕事内容の把握も、課長の大事な仕事だろ」
「絶対……、絶対みんなに疑われてる……」
私はもう一度ため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げるんだぞ」
今朝の課長は気持ちが悪いくらい機嫌が良くて、庶務課のみんなも気が付いていた。
「詩織ちゃんへの牽制なら、私を使わないでください」
「成瀬以外、誰を使えるんだよ」
「やっぱり……」
歓迎会の後から昨日にかけて、状況、関係、感情が大きく動いてすっかり忘れていたが、詩織ちゃんは課長に猛アプローチ中だったのだ。
「そもそも、こんなところにいていいんですか? 部長に呼ばれてないんですか?」
「まだ」
今日の朝礼に、総務部長と藤川総務課長、清水経理課長の姿はなかった。朝一で真が部長に、清水の不倫と横領についての調書を提出したから、出社するなり清水は部長に呼び出され、デスクには戻っていない。午前のうちには社内に噂が広まるだろう、清水と共犯関係にあった社員は仕事どころではないはずだ。
まず清水に罪を認めさせ、不正の証拠として情報システム部で清水のpCを押収し、セックス写真を見つけ、社員のデータと照合し、共犯者を突き止める。
これが筋書きだ。
エレベーターが地下一階に到着すると同時に、私のスマホが震えた。ポップアップで真からのメッセージだとわかった。
「青山奈々が呼ばれたようです」
課長に報告する。課長が目を細めて、にっと笑った。
「そろそろ社内がざわつき始めるな」
「課長、楽しんでません?」
課長は足取り軽やかに通用口に向かう。私も後に続く。
「楽しみだよ。お前の仕事の成果も、この会社から清水が消えるのも」
私も課長につられて、口元が綻んだ。
翌日、清水大介経理課長と総務課青山奈々の懲戒免職が、社内メールで発表された。理由は『不正経理』とだけ書かれていた。
部下の不始末もあり、当面は藤川総務課長が経理課長も兼任し、監査室と協力して清水の不正経理の調査を進めることになった。築島課長も藤川課長の補佐として調査に加わり、二人は大会議室に缶詰状態で大量の書類やデータと格闘していた。
「やっと会えた……」
土曜日の午後十時。ドアを開けるなり、課長が私を抱き締めた。
「お疲れ様です」
「ホントに疲れた――」と言って、課長は私にもたれかかる。
私は課長の背中に腕を回し、ギュッと力を込めた。課長の柔らかい髪が私の首筋をくすぐる。
課長、可愛い――。
こんなふうに男の人に甘えられるの、初めてかも……。
「美味そうな匂いがする」
課長が呟いた。
「ご飯、食べました?」
課長が何時に来るかわからなかったから、一応食事の用意をしておいた。
「まだ……」と言って、課長がぱっと顔を上げた。
「もしかして、待ってた?」
「いえ? 待っててほしかったですか?」
なぜか課長は嬉しそうに微笑むと、私にキスをした。
「成瀬のそういうとこ、いいな」
「そうですか?」
ようやく課長が部屋に上がり、私はキッチンに立った。食事を温め直す。その間に、私は課長に冷えたビールを渡した。
「ありがとう」と言って、課長は栓を開けた。
「旦那の帰りを起きて待ってる奥さんとか、俺無理」
「男の人はそういう健気な女が好きなのかと思ってました」
私はみそ汁を交ぜながら言った。
「義務で待ってられても嬉しくないし、飲んで帰って嫌な顔をされたら気分悪い」
「それは、経験からですか?」と聞いて、ハッとした。
「あ、答えなくていいです」
課長の視線を感じて、私は背を向けた。トレイに食事を載せて、運ぶ。
「経験じゃなく、想像から」
それだけ言って、課長は箸を持った。
課長にとって私は今までの女性とは違う、と勘違いしそうになる。
いや、確かに違うか。
こんな面倒くさい女はそういないだろう。
「調査の進捗状況、どこまで知ってる?」
一口サイズのハンバーグを頬張りながら、課長が聞いた。
「清水の共犯者や被害者に関しては侑から報告を受けてますけど、監査に関しては何も知りません」
私は紅茶のカップを持って、課長と向かい合って座った。
「何も言わなくていいですからね」
「知りたくない?」
「藤川課長が部長に調書を提出した時点で、この件は私の手を離れました。機密漏洩なんて疑いがかけられても、私は責任取れませんから」
「なるほど……」
課長はそれ以上は何も言わなかった。
また、だ。
ただでさえ仕事とプライベートを分けるのが下手なのに、同じ職場の課長と話していると簡単に仕事モードに入ってしまう。
どうしてこう……可愛げがないんだろう。
課長は、そこら辺の男の人よりも仕事人間の私なんかのどこがいいんだろう……。
そんなことを考えているうちに、私は膝を抱えて丸くなっていた。
「成瀬は仕事とプライベートを分けるのが下手だな」
課長が穏やかな声で言いながら、みそ汁をすすった。
「ごめんなさい……」と、私は小声で言った。
「成瀬の趣味ってなに?」
課長がレタスをシャキシャキと噛む音が部屋に響いた。
「趣味?」
「うん。仕事のことを忘れられるくらい夢中になれること」
私はややしばらく考えたが、何も浮かばなかった。
私……、相当ヤバいんじゃないだろうか。
ひとりの時は食事しながらPCいじることもあるし、休みの日に友達と出かけることもない。ランチ会や飲み会に出ても、情報収集に夢中で、食べたものの味もよく覚えていない。スマホの履歴も真と侑くらい……。
「いや、そんなに悩ませるつもりはなかったんだけど――」
気が付くと、課長は小松菜のおひたしを口に運んで、食事を終えていた。
「ごちそうさまでした」と箸を置いて、課長はビールを飲み干した。
「美味かったよ、ありがとう」
「いえ、お粗末様でした」
私は食器をトレイに載せて、キッチンに片づけた。この前も今日も残さず食べてくれている。
「課長の好きなものって何ですか?」
私はテーブルを拭きながら聞いた。課長が私の腕を掴んで引き寄せた。
「成瀬咲」
私は課長の胡坐の上にすっぽりと収まった。
「酔うほど飲んでないでしょう?」
「酔ってないよ」
課長が私の髪に指を絡める。
「食にこだわりはないな。しいて言えば、レストランより定食屋の方がいい……」
「なるほど……」
「でも、成瀬がレストランの方が好きなら連れてくよ」
「定食屋でもいいですよ?」と、私は微笑んだ。
「わざわざ定食屋に行くなら、成瀬の手料理がいいな」
「気に入ってもらえて良かったです」
「この騒ぎが落ち着いたら、超が付くほど高級店に連れて行くよ」
課長の唇が私の首筋に触れる。触れられたところから全身に熱が走る。
「ドレスコードとかテーブルマナーとか面倒なのは嫌ですよ?」
私は精いっぱい、平静を装って言った。
「個室を予約しておくよ、ドレスも用意してやる」
女として甘やかされるのが、少し恥ずかしくて、すごく嬉しかった。
私は初めて自分から口づけた。
「楽しみにしてます」
「…………」
「課長?」
見ると、課長が赤い顔をして目を丸くしていた。
「いや……」
課長が私の腰をグイっと抱き寄せた。
「成瀬からされるとは思ってなくて……」
「えっ?」
「すげー嬉しい――」
課長の心臓の音が驚くほど大きくて、早い。ドクン、ドクンと私の胸に響くたびに、『好きだ』と言われているようで、嬉しくて心地良かった。
「咲……」
課長が耳元で私の名前を囁く。今度は私の心臓が大きな音を立てて、加速し始めた。
課長の唇が私の唇に触れて、離れて、また触れる。焦らされて、もどかしくて、ちゃんと触れてほしくて、身体が疼く。
「かちょ――」
課長が私の言葉を遮るように、口を塞ぐ。
「咲……」
耳や首、頬にキスされて、課長の唇の熱を感じる。
「咲……」
ああ……そうか――。
課長の唇が私の唇に触れて、私は課長の下唇を軽く舐めた。課長の唇がぴくっと驚く。課長が私にしたように、私も課長の耳元で囁いた。
「そ……う……。蒼……」
「咲」
今までのキスとは違う、貪るような深くて激しいキス。今度は蒼の舌が私の下唇をなぞり、私の許しを請う。私が扉を開けると、蒼が私に絡みついてきた。
うまく息が出来なくて、苦しい。なのに、気持ちいい。
「んっ――」
蒼の手が私の胸の膨らみをなぞり、私は思わず声を漏らした。身体が火照る。
自分の熱にのぼせそうだ――。
ヴゥーヴゥー。
テーブルに置いてあったスマホが、バイブ音と共にカタカタと震えた。
私と蒼は一瞬で現実に引き戻され、どちらからともなく唇を離した。
テーブルには二台のスマホが置かれていたが、呼ばれていたのは私だった。
「出ていいよ」
私が躊躇うより先に、蒼が言った。私はスマホを持って、蒼の膝の上から降りた。
侑からの着信だった。私は息を整えて〈応答〉ボタンを押す。
「もしもし」
『遅くに悪い。ちょっといいか?』
「いいけど、こんな時間まで会社?」
私はキッチンに行き、冷蔵庫からビールを出して蒼に渡した。
「サンキュ」と蒼が小声で言った。
『いや、飲んでる時にアラートが鳴ったから、来てみた』
「アラート? ちょっと待って」
極秘戦略課では社内のPCを監視していて、幾つかのキーワードが検索されると侑のスマホと私のPCにアラートが送信される。
私はテーブルの引き出しから私物のノートパソコンを出して、開いた。トップ画面にアラートの通知が表示された。検索されたのは私と真の名前で、検索したのは法務部三課主任川原誠一。
「何者?」と侑に聞きながら、私は社内のネットワークに接続し、川原を検索した。
『清水の同期』
「顔認証には引っ掛かった?」
『いや、こいつはいなかった』
「そう……」
清水の同期で法務……。
私は対応を考えた。
懲戒免職とは言え、清水による横領の被害額が大きければ法務部が動くのは当たり前だ。三課は社員のコンプライアンス教育などが担当だから、主任の川原が調査をしてもおかしくはない。
だけど、もしも清水の共犯だったら……。
『どうする? 部長に報告するか?』
私が対応を決め兼ねていることに気づき、侑が言った。
「部長、いるの?」
『いない』
「侑、清水の写真で男の顔が映っていないものをピックアップして送って。それから、川原についてネット検索かけて。清水との関係と身体的特徴が知りたい」
『わかった』
「部長に報告して、しばらく私に預けて欲しいって伝えて」
『了解』
侑との電話を終えてPCから顔を上げると、蒼はソファにもたれて目を閉じていた。
「蒼? 寝ちゃった?」
反応がない。
私は寝室からビーズクッションと毛布を持って来た。体制を変えた時に上半身を受け止められるように、ビーズクッションを蒼の頭の下に置いた。毛布を広げて蒼に掛ける。
蒼の唇にキスをして、私はリビングの灯りを消した。
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