「み、皆川さん!?どうしてまたプラハに!?」
店内に私の驚いた声が響き渡る。
年が明けた1月下旬、私はアルバイトをしていたあのクロワッサンの美味しいカフェにいる。
今日は仕事ではなく、お客さんとして智くんと一緒に来ていてテーブル席に座っていた。
そこにプラハにいるはずがない人物、元マネージャーの皆川さんが現れたのだったーー。
あのクリスマスの後、日々は流れるように目まぐるしく過ぎていった。
智くんがストラスブールに来た翌日には、おばあさんに、心を込めて選んだクリスマスプレゼントを渡しながら、短期間ではあったけどたくさんお世話になったことに感謝を伝えた。
プレゼントを喜んでくれたおばあさんは、「またぜひ来てね」と最後まで温かい言葉をくれた。
ただ、「聖なる夜は熱い夜だったみたいだね」とコソッと耳元で冷やかされた時には、穴に入ってしまいたいくらい恥ずかしかったけど。
そしてストラスブールからプラハに戻ると、もうそこからは智くんの鮮やかな手際にただただ翻弄されるだけだった。
家に帰るやいなや、「婚姻届を完成させたい」と言われて未記入だった私側の欄を記載する。
すると、「結婚するんだから、もちろん部屋は一緒だよね」と笑顔で言われて、その日から私たちは毎日一緒のベッドで寝るようになった。
さらに、テレビ電話でご両親とお会いして結婚の承諾を得ると、指輪を買いに行ってお互いの左手の薬指にはめるようになり、婚姻届は智くんが大使館で受理する手続きをササっと終えてしまった。
気付けば、私は「桜庭環菜」となっていたのである。
「これでいいのかな?」と一瞬も考えたり不安になったりする暇なく、結婚していたのだ。
マリッジブルーとは無縁の結婚だった。
そしてこの間に、智くんが言っていた例の記事も公開された。
【衝撃!月9女優が犯罪に手を染め後輩女優を餌食に。神奈月亜希は悲劇の女優だった!】という見出しで週刊誌に載ったのだ。
ワイドショーでも特集され、ネットニュースやSNSでも情報が拡散され、現役女優・千葉真梨花の悪行が世に知れ渡った。
それとともに、私のスキャンダルは誤報だったことも広く知られ、「可哀想」と同情が集まり悪いイメージは払拭されつつあるようだった。
もう以前のような悪意は向かないだろうし、逃げ隠れしなくて良いと思うとホッとする。
同時に、千葉真梨花のマネージャーだった皆川さんは大丈夫かなと心配した矢先のことだった。
「皆川さん、こちらです。どうぞお席におかけください」
私が皆川さんの登場に驚いて目を丸くしているのに対して、旦那様である智くんは至って冷静だ。
むしろ皆川さんがここに来ることを知っていたと思われる態度である。
「智くんどういうこと?」
「皆川さんとここでお会いする約束をしていたからね。ほら、紹介したい人がいるって前に話したでしょ?あとでもう1人いらっしゃるよ」
「え?皆川さんが紹介したい人の中の1人ってこと?」
どういうことかと、向かいの席に腰を下ろした皆川さんに視線を向ける。
皆川さんの表情は、数ヶ月前にプラハで会った時よりもスッキリしていて顔色も良いように感じた。
「亜希、僕からちゃんと説明するよ。実はね、僕は事務所を先月で退社したんだ」
「ええっ!?もしかして真梨花さんの件が原因?」
「真梨花は関係ない。僕はやっぱり亜希を国民的女優にしたいって夢が諦められないんだよ。だからもう一度女優として頑張らない?マネージャーとして僕も頑張るから」
「皆川さん‥‥」
そう話す皆川さんの表情は真剣そのものだ。
ここまで女優として認めてもらえているのは嬉しく思う。
「確かに過去のスキャンダルのことは先日の記事のおかげでマシになったと思う。でもやっぱり日本で女優は厳しいと思うんだけど‥‥」
私が口ごもると、隣で静かに話を聞いていた智くんがそこで口を挟む。
「環菜、それはもう1人の方から話を聞いてから判断したらどう?そうですよね、皆川さん?」
「はい。あ、ちょうどいらっしゃいましたね」
カフェの入り口を見ていた皆川さんが、来店した人に手を上げて合図をしている。
それに気づいたその人はこちらに向かって歩いて来た。
皆川さんと智くんの視線を追って私もそちらに目を向けて、再度驚愕してしまう。
『ジ、ジェームズさん!?』
そこにはカフェの常連客で、演技好き仲間のジェームズさんがにこやかな笑顔を浮かべて佇んでいたのだ。
(ジェームズさんがここにいるのは不思議じゃないけど、なんで皆川さんと知り合いなの!?智くんもジェームズさんが来ることを知ってたみたいだし。一体どういうこと‥‥??)
『環菜、久しぶりだね。ここのお店を辞めてしまって以来かな?』
記者が突然来て、プラハを逃げるように去った時のことだった。
あの時にはジェームズさんに記者を追い払ってもらい助かったのだ。
『先日は助けて頂きありがとうございました。ところで、今日はなぜここに?皆川さんとお知り合いなんですか?』
『まだ何も聞いていないんだね』
『ジェームズさん、僕が今から説明します』
皆川さんがそうジェームズさんに話しかけると、今度は私に向き直る。
そして皆川さんの口からはとんでもないことが語られた。
『僕が数ヶ月にプラハに来たのは覚えてるよね?あの時、亜希に女優復帰を断られて、道端に佇んでいた時に偶然出会ったのがジェームズさんなんだ。彼を見た時は驚いたよ。まさかこんなところでお会いできるとは想像してなくて、思わず僕から声をかけたんだ』
『ジェームズさんに皆川さんが声をかけたの?知り合いだったとか?』
なぜジェームズさんを見て驚いたり、声をかけたりするのだろうか。
それが分からず、私は首を傾げる。
『彼はアメリカの動画配信サービスの会社「Netfield(ネットフィールド)」のCEOのジェームズ・パーカー氏だよ!よく世界長者番付にも名を連ねているじゃないか」
「‥‥!!」
Netfieldのジェームズ・パーカー氏という名前はもちろん聞いたことはあるが、顔をよく知らなかった。
まさかジェームズさんがそんなすごい人とは思わずビックリである。
Netfield といえば、映画やドラマを配信していて、独自にオリジナルコンテンツも制作している世界中で利用者がいる配信サービスだ。
どうりでジェームズさんがドラマや映画に詳しいはずだ。
『そんなすごい方だとは存じ上げず、フランクに話してしまってすみません‥‥!』
『やめてくれよ、環菜。今まで通りでいいよ』
知らなかったとはいえ失礼があったかもとお詫びをすると、全く気にしてないというふうに手を振られた。
『それで声をかけたんだけど、僕が芸能関係の仕事をしていると知ると、ジェームズさんに日本の女優について聞かれたんだよ。気になっている女優がいるとかで。でも写真もないしなんとも言えないから、逆に売り込んでみようと思って僕から環菜の写真を見せたんだ』
『皆川さん‥‥』
相変わらず隙あらば営業をかけて仕事をとってくる敏腕ぶりだ。
しかもその時は私のマネージャーでもなかったのに。
『ところが、ジェームズさんが探していたその女優というのが、なんと環菜だったんだよ!思わぬ事態で、その時にお互いの連絡先を交換したんだ。で、今日ここに来て頂いたわけだよ』
皆川さんからことの経緯を一通り聞くと、今度はジェームズさんが私に話しかける。
それはいつものフランクな常連さんではなく、大企業CEOとしての威厳ある姿だった。
『僕が環菜を探していたのは、前にも話したとおり、君が過去にテレビや映画を主とした女優活動をしていたと見当をつけたからだ。だけど、君本人からはその過去については話してくれなかったからね』
『それは‥‥』
『いや、それはいいんだ。事情があったことは皆川さんからも聞いたしね。皆川さんから教えてもらって君の過去の出演作も観させてもらったよ。それで僕は君にNetfieldがオリジナルで制作しているドラマに出演して欲しいと思ってるんだ。つまり、女優としてオファーしたい』
『ええっ!?』
思わぬ申し出に声が裏返りそうになる。
私が動揺しているのを感じたのか、隣に座る智くんは、落ち着かせるようにテーブルの下でそっと私の手を握ってくれた。
『このカフェに通っていたのは、ある意味オーディションみたいなもので、失礼ながら君を観察していたんだ。もちろんヨーロッパで仕事があってプラハに滞在しているから、美味しいクロワッサンを目当てにしていたのもあるけどね』
なんてことだろう。
まさかジェームズさんとの会話で色々チェックされていたとは思わなかった。
確かに今思えば、「どういう女優になりたいか」「どの女優のどんな演技がいいと思うか」など世間話の一環で、それっぽいことを聞かれていたなと思い出す。
『君は今、日本で活動していないんだろう?スケジュールも空いている。それならぜひ出演してほしい。英語の作品だけど、環菜の英語力であれば問題ないから』
『どう?環菜、とってもいい話だろう?』
ジェームズさんに熱くオファーを頂き、皆川さんは目を爛々と輝かせている。
2人の視線が私に集中して、突然のことにあたふたしていると、ここまで黙って話を聞いていた智くんが口を開いた。
『環菜は日本で活動することを懸念していたけどこの話はそれを気にすることないし、大好きな演技がまたできるんだからチャンスだと思うよ。それともその役を演じる自信がない?できない?』
『‥‥!』
その言葉で私の負けず嫌いな心に火がついた。
(どんな難役だったとしても、練習してできるようにするのが私。これまでもそうしてきた。英語で演じるのは初めてだし挑戦もしてみたい。ここで奮起しなきゃ、女が廃る!)
『できる!やる!‥‥ジェームズさん、私にその役をやらせてください!』
勢いよく彼に頭を下げる。
オファーを快諾する返事にジェームズさんは顔を綻ばせてウンウンと頷いた。
『じゃあ近日中に詳細はスタッフから皆川さんに連絡させるよ。春には撮影が始まると思うからね。環菜、これからもよろしく』
ジェームズさんが私に向かって手を差し出し、私もその手を握り返す。
私たちは固く握手を交わした。
交渉が成立して、ジェームズさんがその場を去ると、智くんと皆川さんと私だけになった。
「じゃあ亜希、僕は先方とのやりとりもあるし、今日をもってまたマネージャーに戻るからよろしく」
「事務所にも所属してないし、フリーの女優になるのかな?」
「そのあたりは今後考えよう」
流れでまた皆川さんにマネージャーをお願いすることになったが、今まで二人三脚でやってきた信頼できる相手だから心強かった。
「あ、そうだ!私、皆川さんに報告しないといけないことがあって」
そう言うと、私はチラリと横目で智くんを見る。
その視線に気づいたのか智くんもニッコリ笑った。
「あのね、私結婚しました!桜庭環菜になりました!」
「ええっ!?いつの間に!!」
皆川さんは目を見開いて私と智くんの交互に視線を送る。
「僕との結婚は、女優としての環菜にマイナスにならないと思いますよ」
智くんはそう言うと、先日私に言って聞かせてくれたイメージ戦略の提案を皆川さんに理路整然と語り出した。
次第に皆川さんの目は真剣みを帯びてきて、私をそっちのけに、2人は今後を話し合っている。
私のことなのに私は置いてけぼり状態だ。
「それなら、心機一転を印象付けるためにこのタイミングで芸名変更もした方が良さそうですね」
「本名の桜庭環菜にしたらどうです?」
「そうしましょう!いや~、さすが桜庭さんですね。策略を練るのに長けてらっしゃる!先日のあの真梨花の時も‥‥」
「その話はまたにしましょう」
皆川さんが何かを思い出すように話し始めたところで、智くんが笑顔を深め、言葉を静止させた。
それに対して、心なしか皆川さんはギクッとしている。
(なんか皆川さんが智くんに怯えてる?まさかね)
「ではこれで今日の話は終わりだと思いますので、僕たちは失礼します。今後とも環菜をよろしくお願いします。何かあれば随時僕にご連絡くださいね」
「は、はい!もちろんです!」
わずかに緊張を走らせる皆川さんににこやかに笑いかけると、智くんは私に立つように促し、私も挨拶をしてその場をあとにした。
私たちは家までの道のりを手を繋ぎながら歩く。
すっかり手を繋ぐのが当たり前になったなぁと改めて思った。
繋いだ手には指輪が光っている。
「また環菜が好きなことをできるようになって良かったと思うよ。おめでとう」
「智くんのおかげだよ。ありがとう!ところで、智くんはジェームズさんのことも知ってたの?」
「レセプションで会った時は気づかなかったけど、先日日本で皆川さんにお会いした時にその話を聞いてね。だから今日いらっしゃることは知ってたよ」
「私に会わせたい人ってあの2人だったんだね」
智くんが私の未来を考えて色々手を回してくれたことを感じ嬉しく思った。
「私の未来を考えてくれて、色々してくれて本当にありがとう」
「環菜の未来は僕の未来でもあるから。僕たちは夫婦なんだし。フリじゃなくて本当のね」
その言葉に胸が温かくなる。
もう私は一人じゃない、一緒に未来を歩んでくれる人がいるのだと思うと心強く、なんでもできる気がした。
(新しい挑戦も智くんがそばにいてくれるなら、もっと頑張れる!智くんに誇れる仕事をしよう!)
改めて心に火が灯り、やる気に満ち溢れてきた。
こうして、秋月環菜あらため桜庭環菜の新しい挑戦が始まったのだったーー。
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