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/// 第3話
九条の車がシーサイドパレス東雲(しののめ)に近づいたとき、神倉月(かぐらつき)はマンションのエントランス前で立ちつくしていた。
空には星が瞬き始めている。海から吹く風が冷たい。遠くの水平線は、群青色に沈み始めていた。黒いセダンが静かに停まり、運転席の窓が下がった。
「こんばんは」
若い男が微笑む。
月は最初、その男が九条零(くじょうれい)だとは気付かなかった。病院で見かける九条はダークネイビーのスクラブに白衣姿で、前髪は額を見せるようにワックスで軽く整えられている。しかし今は前髪を下ろしており、黒いコートに濃いグレーのタートルネックを着ていた。私服姿の九条は、病院で見るよりも若く見えた。まるでアイドルか俳優のようで、何も知らなければ医師には見えないだろう。
「乗って」
九条にそう言われても、月はすぐには動かなかった。
知らない男の車に乗るのは抵抗があった。それにこの男は何かがおかしい。知られてはならないことや、知るはずのないことを、知っているような気がする。
だが、電話を切った後も、あの言葉だけが頭から離れなかった。
『今の君を一人にしたくないと思ってね』
これまで誰にも言われたことのない言葉だった。
母親ですらそうだった。母は幼い月が一人で泣いていても、当然だと言わんばかりの態度を示していた。だから彼女は迷いを振り切り、助手席に乗った。
「いい所ですね。ここ」
車が走り出してから、九条が言った。
月は窓の外を見る。マンションが遠ざかっていく。
「そうですか?」
「静かな場所だからね」
「人がいませんから」
「それがいいんでしょう?」
月は答えなかった。
九条はそれ以上追及しない。
カーラジオからは、クリスマスソングが流れている。まだ十一月。それなのに街はもうクリスマスだった。イルミネーションに彩られた街路樹、商業施設、一般住宅。街には赤と緑の看板が並び、街灯には大きなリボンとサンタクロースの飾りがついている。
また一年が経った。そんなことを思ったとき、九条が口を開いた。
「休みの日はいつも何をしてるんですか?」
「寝てます」
「それだけ?」
「それだけです」
「つまらないな」
言葉とは裏腹に、九条は笑っていた。月もつられて少しだけ笑う。
誰かとこんな話をするのは久しぶりのことだった。中身のない話だが、まるで自分がまっとうな、普通の人間になったかのような気分になれる。私は今、普通の人間のふりをしている。私はうまく擬態している──
『お前はマトモな人間じゃない』
遠くで母が怒鳴っている。
しかし月の意識はもはや過去にはなかった。
ビルの向こうに観覧車が見える。夕暮れの空を背景に、巨大な円がゆっくりと回転している。環にはイルミネーションが灯り、赤と緑とシャンパンゴールドに輝いていた。そこに時折、色とりどりの光が流れる。まるでクリスマスツリーを彩る電飾のように。その姿は群青色の空にくっきりと浮かび上がり、どこか現実感を失った風景のように見えた。
東雲市の郊外にある複合レジャー施設。
休日には家族連れやカップルで賑わう場所だが、平日の夜は人も少ない。
二人は並んでゴンドラに乗り込んだ。
ゴンドラの内部は思った以上に狭かった。
二人で向かい合うように座ると、ドアが閉まった。静かな振動とともに、ゆっくりと上昇が始まる。金属の軋むかすかな音だけが耳に届く。外の喧噪も地上の灯りも少しずつ遠ざかっていく。遊園地のネオン。ショッピングモールの駐車場。道路を流れる車のライト。すべてが足元に沈んでいく。マンションの窓。コンビニの看板。駅前の商業ビル。それぞれの光の下で誰かが暮らしている。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが怒っている。しかし現実感がなかった。人の営みも善悪も、全てが小さく見える。
「綺麗ですね」
「そうだね」
九条は外の景色ではなく、向かいに座る月を見ていた。
彼の視線に気付いて、月は目を逸らした。沈黙が立ちこめる中、ゴンドラだけが上昇していく。遠くに広がる夜景。無数の灯りが黒い地面に散らばっているのが見える。
やがて九条が慎重に口を開いた。
「……神倉さんは、真壁さんって知ってる?」
月は顔を上げ、九条の顔を見た。
「真壁さんって、薬剤部の主任の?」
「うん」
──真壁隆志(まかべたかし)。
東雲総合医療センターの薬剤部主任薬剤師。
病院では有名だった。真面目で、優しく、少し面倒な人。しかし悪い評判は聞かない。融通の利かない一面こそあったものの、彼は温厚で、争いを好まない人だったからだ。
有名になったのは、病院内での仕事とは関係のない出来事ゆえだった。
「亡くなったんですよね」
「二ヶ月くらい前にね」
九条は窓の外を見る。
夜景の光が彼の横顔を照らしていた。
「事故扱いになってる」
「……そうですね」
月も知っている。真壁は東雲総合医療センター近くの立体駐車場から転落死した。
不自然な事故だった。真壁の転落した非常階段は老朽化しており、閉鎖されていた。しかも彼は高所恐怖症。そのような場所に立ち入る理由がなかった。
しかし警察は事故として処理をした。他殺を疑う声もあったが、真壁にはトラブルの形跡がなく、所持品も失われていなかった。
九条は軽く息を吐き、再び口を開いた。
「実は、亡くなる少し前に相談されてたんだ。真壁さんから、個人的に」
月は黙って続きを促す。
「薬が合わないって」
「薬ですか?」
「うん。薬の在庫がね」
九条の声は静かだった。
「在庫の数字が合わないらしい」
月の指先が僅かに動く。
「病院って意外とアバウトなんだ。人間が管理しているからね。入力ミスもあれば、紛失もあるし、盗難もある」
ゴンドラはさらに高く昇る。窓の外には街全体が広がっていた。
九条は言葉を続ける。一言一言、何かを確かめるように。
「……でも、真壁さんは気にしてた。異常だって。数字は嘘をつかないって」
月は黙って夜景を見ていた。見ているふりをしていた。
薬が合わない。数字が合わない。その理由には心当たりがある。患者を殺すために月が薬を盗み出していたからだ。しかし九条はそのことに気付いているのだろうか。気付いているから、こんな話をするのだろうか。月は無関心を装いながら九条に問う。
「先生はどう思ったんですか?」
「さあ」
九条は笑う。
「薬剤師特有の職業病かなって」
冗談めいた口調だったが、その目は笑っていなかった。
彼は月を見据えたまま、口先だけで笑って言う。
「結局、何が気になっていたのか聞けないままだった。薬の量が合わなくなるのは、ある看護師の勤務日だけだと言っていたんだけどね」
月は息を呑む。やっぱり。やっぱり気付いてる。だから患者を殺した日に、電話をかけて誘い出した。だけど証拠はない。九条が気付いた証拠も、自分が盗み出した証拠も。偶然。ただの偶然だ。そう思おうとしたものの、手のひらは汗ばんだままだった。
「神倉さんはどう思う?」
九条が訊く。
「もし本当に薬の数が合わなかったら、誰かが使っていたと思いますか?」
改まった口調だった。
月の心臓が早鐘を打つ。ゴンドラはさらに上昇する。
逃げ場はどこにもない。狭い密室。遠い地上。
九条零の視線だけが、静かに月に向いている。
月はすぐには答えられなかった。
ゴンドラの外には、夜景が広がっている。海沿いの道路を流れる車のライト。港のクレーンに灯る作業灯。商業施設のイルミネーション。すべてが小さく、頼りなく見えた。
九条は急かさない。月の返答を、ただ静かに待っている。
その沈黙が妙に居心地悪かった。
「……分かりません」
ようやく月は答えた。
「入力ミスかもしれませんし」
「そうだね」
九条は頷いた。
「真壁さんも最初はそう考えていたらしい。でも──」
九条は窓の外へと視線を転じ、言葉を続けた。
「人間って面白いよね」
「……何がですか?」
「違和感を覚えると、それを確かめたくなる」
月は返事をしなかった。黙って九条の話を聞く。
「数字がおかしい。記録がおかしい。誰かの様子がおかしい。そういう小さな違和感を放っておけない人がいる」
九条の横顔は穏やかだった。
だが、月は何故か寒気を覚えた。
「神倉さんは?」
「何がですか」
「気になることがあったら調べる?」
九条の質問の意図が見えない。
月は少し考えてから答えた。
「内容によります」
「例えば?」
「仕事に関係あることなら」
「責任感が強いんだね」
九条が笑う。
「普通ですよ」
「そうかな」
ゴンドラが頂上へ近付いていた。
地上がはるか下方に遠のき、現実感が希薄になる。
月は、ふと気付く。
自分はこの男について何も知らない。
勤務先が同じ。優秀な医師。知っていることは、それだけだ。
なのに何故、こんな場所で一緒にいるのだろう。
「先生は、どうして私を誘ったんですか?」
九条は少しだけ目を丸くした。
「今更だね。言ったでしょう。君を一人にしたくなかった。それだけだよ」
「どうしてそんな風に思ったんですか?」
「患者さんが死んだのに、とても楽しそうだったからね」
月には何も言えなかった。息が詰まりそうだった。やはり九条は気づいていた。患者が死亡したにも関わらず、楽しそうな顔をしているという矛盾点に。だから真壁の話をしたのだろう。致死量の薬を投与して、患者を殺しているのではないかと疑って──
しかし九条は笑っていた。彼の笑顔には屈託がなく、悪意は感じられなかった。
「俺もそういうときがあるから。その後どうなるのかも大体想像がつくんだよ。だから一人にしたくなかった」
それは本当なのだろう。
少なくとも今の彼の表情は、自然に見えた。
この言葉は嘘ではない。その確信が逆に、月を孤独にする。
──私の気持ちが分かるんですか?
──先生も、人を殺したことがあるんですか?
──過失ではなく、故意に。
そんなことは、言えなかった。
彼の真意を問いただすなら、まずその前に、自分が人を殺したことを自白しなければならない。それはできなかった。彼が自分の味方だという保証はどこにもない。彼も人を殺している、そんなことはただの憶測、妄想に過ぎない。そうであればいいと期待しているだけだ──
ゴンドラが頂上へ到達する。
一瞬だけ、動きが止まったように感じる。
東雲市の夜景が眼下に広がっている。月はまた、窓の外を見た。遠くに病院の建物が見える。東雲総合医療センター。昼も夜も灯りが消えない場所。人が生きて、人が死ぬ場所。
「そういえば、神倉さん。最近、病院がネットで話題になっていることは知ってる?」
訊かれて、月は九条に視線を戻した。
「はい。少しだけなら」
「タカセ探偵局っていう動画配信者がいてね。知ってる?」
「名前は聞いたことがあります。でも内容は知りません」
「……だろうね」
九条はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
彼が画面を操作すると、液晶の放つ鮮やかな光が二人の顔を照らした。
「まぁ、あまり趣味のいい配信者じゃない。炎上芸で再生数を稼ぐような輩だ。でも──」
九条の口元がわずかに歪む。
「君は見ておいた方がいいかも知れない」
月の胸がざわつく。
理由は分からない。ただ、嫌な予感がした。
九条は動画のサムネイルを開く。
そこには東雲総合医療センターの外観が映っていた。
彼の細く長い指が、動画の再生ボタンに伸びる。