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翌朝、教室の空気はいつもより静かだった。
いや、静かというより——何かが張りつめている。
声がひとつもないのに、誰もが互いの様子をうかがっていた。
遥が入ってくると、その視線が一斉に動く。
ざらり、と空気が擦れたような音。
それだけで、胸の奥に冷たいものが流れ込む。
何も言わずに席につく。
椅子の脚が床を軋ませる。その音がやけに大きく響いた。
前の席の男子がわざとらしく振り返り、鼻で笑う。
「おい、帰ってきたぞ」
その声に、教室の空気がざわめく。
笑いとも、緊張ともつかない音があちこちで弾けた。
蓮司は教壇の前に立っていた。
教師もまだ来ていない。
ポケットに手を突っ込み、何も言わずにクラス全体を見回す。
それだけで、何かの“開幕”を告げるようだった。
「……おい、誰か。あれ、持ってきたか?」
蓮司の声が低く響く。
誰かが笑い、机の中から何かを取り出す。
小さな水鉄砲。だが、狙いは水ではない。
中身が何か、遥は知っていた。
誰かが机を叩き、椅子を蹴る。
その連鎖は一瞬で広がる。
笑い声が重なり、ざわめきが熱を帯びる。
教室が、ゆっくりと“あの空気”に変わっていく。
遥は席を立たなかった。
立てなかった。
動けば、刺激になる。動かなければ、終わる。
そう思っていた。
けれど、そんな理屈はとうに通じない。
机の上に、何かが投げつけられる。
ノート。プリント。消しゴム。
それが次第に、より重く、より狙いを持つものに変わっていく。
笑い声の質も、変わる。
軽い嘲りから、興奮混じりの呼気へ。
「やめろよ」
遥がようやく声を出した。
けれど、その声はすぐに笑いにかき消された。
「やめろ? お前が言うなよ」
誰かの声。
それを皮切りに、さらに音が重なる。
机の上の教科書が床に叩きつけられ、誰かが水鉄砲を撃つ。
冷たい液体が、首筋を伝って背中へ落ちた。
遥はびくりと体を震わせた。
「ほら、まだ動くじゃん」
誰かが言う。
その言葉に、笑いが広がる。
蓮司は動かない。
ただ、教壇の前で腕を組み、静かにその光景を見ていた。
目が合った。
その瞬間、遥は理解した。
——あれが“合図”だ。
教室が崩れるように動いた。
押され、引かれ、机が倒れる音。
誰かの笑いと、誰かの息づかい。
視界が揺れる。
殴られたわけでもないのに、息が苦しい。
遥はただ立ち尽くしていた。
耳の奥で、自分の鼓動が爆音のように響く。
音が遠ざかり、代わりに世界が鈍くゆがむ。
蓮司の声が、どこかで響いた。
「いいんだよ。こいつは、何されても壊れねぇから」
その一言で、すべてが凍った。
笑いも、ざわめきも、止まる。
遥の肩をつかんでいた誰かが、ゆっくり手を離す。
その静寂の中で、遥は小さく息を吸った。
喉の奥に鉄の味がした。
——もう、何も感じないふりをするしかない。
その瞬間、遥の中で何かが静かに壊れた。