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薄く閉じたノートを、蓮司は再び開いた。ページの端には、さっき描いた遥のラフスケッチ。輪郭も、影も、まだ定まっていない、途中のままの線。それでも、そこには確かに「遥」がいた。形としてではなく、気配として。黙って受け入れるような、どこか遠くに焦点を合わせたような、温度のない静けさで。
蓮司はふ、と笑う。
ページをめくる。
その先に現れたのは、沙耶香だった。
同じノートの数ページ前、やや強めに押されたペン跡。髪の流れが、首筋を這うように描かれ、瞳の輪郭には微かに濃淡があった。挑発するような笑み。だが、それを描いていた蓮司の意識は、もはや沙耶香の「顔」ではなく、そこに宿る「視線」の方に向いていた。
ページを行き来させる。
沙耶香。遥。
女。男。けれど、その差異はどうでもよかった。
沙耶香の線には「意志」がある。欲望を知っていて、それを支配する側の眼差しだ。
一方、遥にはそれがない。いや――蓮司の目には、そう見えている。
意志の不在。拒絶しない代わりに、求めもしない。受け入れているようで、何一つ与えてはいない、虚ろな器。
蓮司はページの中央に親指を置きながら、まるで品定めをするように両者を眺めた。
違う、とも言えるし、似ている、とも言える。
ただひとつ確かなのは、どちらの絵にも、自分の「好き」が滲んでいるということだ。
――壊れていく瞬間。
それを美しいと思う自分を、否定したことは一度もない。
沙耶香の絵には、相手を壊す快楽がある。
遥の絵には、壊される快楽がある――もっとも、本人が自覚しているかは知らないが。
「……どっちが好き、って話じゃないんだよな」
蓮司は呟く。
その声音は軽い。だが、その軽さが不気味なくらいに真実味を帯びていた。
沙耶香は、理解している。遥の存在も、蓮司の嗜好も。
黙って許容しているのではなく、笑って差し出している。
そこにあるのは、「所有者」としての余裕だった。
遥は、何も知らない。知ったところで、きっと何も変わらない。
それがまた、蓮司にはたまらなく魅力的に映るのだ。
ページを閉じる。
その一瞬、紙の匂いが鼻先をかすめる。
そして、何も言わずに、蓮司は再び遥の方へと目を向けた。
同じ姿勢。同じ呼吸。
まるで、描かれたままのポーズで、時が止まっているかのようだった。