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於田縫紀
7
第4話 雨橋
雨の日だけ現れる橋がある。
そう聞いたので、磁馬は雨を待った。
朝から降っていた。
細い雨ではなかった。
けれど、荒れた雨でもなかった。
町の屋根を濡らし、
道の石を濡らし、
川の表面を細かく叩く雨だった。
磁馬は布で包んだスケッチ帳を抱え、川辺の道を歩いた。
傘は差している。
けれど風が横から吹くたび、
モカ色の上着の袖が湿った。
「いい雨だなあ」
誰に言うでもなくつぶやく。
川の向こうは少しかすんでいた。
普段なら渡し舟を使うらしい。
けれど今日は、川の真ん中に何かがあった。
橋だった。
低く、細く、濡れた光をまとった橋。
木でも石でもないように見えた。
雨粒が集まって、形だけ橋になったようだった。
磁馬は足を止めた。
「本当にある」
その声に、横から返事があった。
「あるよ。雨の日だけ」
黄緑の雨合羽を着た少女が立っていた。
長靴の先に泥がついている。
短くまとめた髪から、水滴が落ちていた。
磁馬は少女を見た。
「よく見るの?」
「雨の日は見る」
「名前は?」
「澪」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
澪は橋を見た。
「描きに来たの?」
「うん」
「渡るんじゃなくて?」
「まず描く」
「変なの」
「よく言われる」
磁馬は川辺の茶屋の軒下に入った。
茶屋の主人が、湯気の上がる釜のそばにいた。
茶色の前掛けをつけ、雨の向こうを見ている。
「雨橋目当てかい」
「うん」
「なら、そこで描くといい。濡れにくい」
「ありがとう」
「久作だ」
「磁馬」
久作は少し笑った。
「また変わった名だな」
「よく言われる」
磁馬は軒下に腰を下ろし、スケッチ帳の布をほどいた。
紙は濡れていない。
よかった。
ペンケースを出す。
小銭袋を確かめる。
訳機を奥に押し込む。
傘を壁に立てかける。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
磁馬は雨橋を描き始めた。
川。
雨粒。
かすむ向こう岸。
そして、雨だけでできたような橋。
線を引くたび、
紙の上に湿った音が残る気がした。
澪は横で見ていた。
「雨を描くの、むずかしくない?」
「むずかしい」
「じゃあ、なんで描くの」
「むずかしいから」
澪は少し笑った。
「変なの」
磁馬はうなずいた。
雨橋の端に、人影が見えた。
向こう岸から、一人の老人が橋を渡ってくる。
足音はしない。
ただ雨の音だけがある。
老人は橋を渡りきると、何事もなかったように茶屋へ来た。
久作が茶を出す。
「今日は出たな」
老人がうなずく。
「出た。助かった」
磁馬は橋を見た。
雨橋は、まだそこにある。
けれど輪郭が少し揺れていた。
澪が言った。
「雨がやんだら消えるよ」
「途中で?」
「うん。だから急いで渡る人もいる」
「怖くない?」
「私は渡らない」
「どうして」
澪は長靴の先で泥をつついた。
「見てるほうが好き」
磁馬はその横顔を描き足した。
橋を見ている澪。
渡らない少女。
雨の日だけ外へ出る背中。
久作が小さな団子を皿に乗せて持ってきた。
「食べるかい」
磁馬は顔を上げた。
「いいの?」
「雨の日は客が少ない。描いてくれるなら、ひとつくらい」
「ありがとう」
磁馬は団子を受け取った。
温かかった。
雨の音の中で食べる団子は、
甘さがゆっくり来た。
「うまい」
久作は満足そうにうなずいた。
その時だった。
立てかけていた傘が、風で倒れた。
傘の先がペンケースに当たる。
中から一本、細いペンが転がった。
ころ。
軒下の端へ向かう。
磁馬は手を伸ばした。
届かなかった。
ペンは雨に濡れた石の上へ出て、
小さく跳ね、
茶屋の下の隙間へ入った。
磁馬の顔が止まった。
澪がすぐにしゃがんだ。
「落ちた」
「落ちた」
磁馬もしゃがむ。
久作が軒下に顔を出した。
「奥へ入ったか」
磁馬は隙間をのぞいた。
暗い。
湿っている。
細いペンが見えない。
「探す」
澪が言った。
「雨橋、消えるかもよ」
磁馬は橋を見た。
橋はまだある。
でも雨が少し弱くなっている。
それでも磁馬は首を振った。
「見つかるまで帰らない」
澪はしばらく磁馬を見た。
「じゃあ、橋より先にペンだね」
「うん」
久作が竹の細い棒を持ってきた。
「これで探せ」
磁馬は受け取った。
隙間へ入れる。
かさ。
こつ。
何かに当たる。
出てきたのは小さな葉だった。
澪は反対側へ回り込んだ。
「こっちにも穴がある」
磁馬も移動する。
雨が肩に落ちる。
スケッチ帳は軒下に置いたまま。
鞄は胸に抱えたまま。
もう何も落とさない。
澪は長靴のまま水たまりに入り、茶屋の横をのぞいた。
「あったかも」
「本当?」
「でも奥」
久作が灯りを持ってきた。
薄い光が隙間を照らす。
そこに、ペンがあった。
茶屋の床下の木片に引っかかっている。
磁馬は竹の棒を入れた。
少し動く。
また止まる。
澪が息を止める。
「右」
磁馬は右へ寄せる。
「もう少し」
ペンが転がる。
雨の音が少し弱くなった。
橋のほうで、何かが揺れた。
澪が振り返る。
「消えかけてる」
磁馬も見た。
雨橋の輪郭が薄くなっている。
でも、
ペンはまだ出ていない。
磁馬は棒を持ち直した。
「先にこれ」
「うん」
澪は短くうなずいた。
久作が茶屋の板を少し持ち上げた。
「今だ」
磁馬が棒で寄せる。
澪が手を伸ばす。
ペンが出た。
澪の指がそれをつまんだ。
「取れた!」
磁馬は両手で受け取った。
濡れている。
でも無事だった。
「ありがとう」
澪は笑った。
「橋、まだ少しある」
磁馬はスケッチ帳を抱え、軒下へ戻った。
雨橋は、
細くなっていた。
向こう岸とこちら岸をつなぐ線が、
今にもほどけそうだった。
磁馬は急いで描いた。
でも慌てすぎない。
雨橋の終わり。
消えかける橋。
渡らずに見ている澪。
茶屋の軒下。
床下から戻ったペン。
久作の持つ灯り。
線を引く。
雨が弱くなる。
橋が薄くなる。
紙の中で、雨橋だけが少し長く残った。
現実の橋は、
真ん中から消え始めている。
でも絵の中の橋は、
雨粒をつなぎ止めるように、
ゆっくり形を保っていた。
澪がのぞき込む。
「絵の橋、まだある」
「うん」
「本物は、もう消える」
雨橋は、
最後に細い線になった。
それから川の雨粒に戻った。
何もなかったように、
川だけが流れている。
澪は少し寂しそうに見ていた。
磁馬はペンを動かし続けた。
紙の中の雨橋は、
消えたあとも、
影のような線を残していた。
久作が言った。
「今年も見られてよかったな」
澪はうなずいた。
「うん」
磁馬は絵を閉じずに乾かした。
紙の中では、
雨橋が現れ、
人が渡り、
少しずつ消えていく。
でも完全にはなくならない。
見た人の目の中に残るように、
絵の中でも少しだけ残る。
澪は言った。
「来年も来る?」
「たぶん」
「雨の日じゃないとだめだよ」
「うん」
「晴れた日に来ても、橋はないよ」
「橋がない川も描く」
澪は笑った。
「やっぱり変」
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚には、黄緑の雨合羽を着た澪を描いた。
雨橋を渡らず、
川辺でじっと見ている姿。
もう一枚には、茶屋の軒下の久作を描いた。
湯を沸かしながら、
雨の川を見ている姿。
澪の絵の中では、
雨粒がほんの少し落ち続けていた。
久作の絵では、
湯気が雨音に混ざるように揺れていた。
「くれるの?」
澪が聞いた。
「手伝ってもらったから」
「ペン探し?」
「うん」
久作は絵を受け取り、店の中を見た。
「雨の日だけ飾るか」
「それがいい」
磁馬は濡れたペンを布で拭いた。
鞄を確かめる。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
傘。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
雨はほとんど止みかけていた。
川にはもう橋がない。
ただ、さっき橋があった場所だけ、
水面の揺れ方が少し違うように見えた。
磁馬は傘を持ち、茶屋を出た。
澪が川辺から手を振る。
「また雨の日に」
「うん」
久作も店の奥から声をかけた。
「次は団子を多めに焼いとく」
磁馬は振り返った。
「それは来る」
澪が笑った。
磁馬は雨上がりの道を歩き出した。
鞄の中で、
雨橋の絵が静かに湿った時間を進めている。
橋が現れる。
人が渡る。
ペンが落ちる。
みんなで探す。
橋が消える。
そして、
紙の中だけ、
雨の日の橋がまた少しだけ戻ってくる。
磁馬は空を見上げかけて、
やめた。
まだ雨の匂いがする。
それだけで十分だった。
コメント
1件
わあ〜〜〜第4話「雨橋」、めっちゃよかったです😭💕 雨の日だけ現れる橋っていう設定からしてもうエモすぎるし、磁馬くんが橋を描こうとしてるのにペンが落ちて、澪ちゃんと久作さんが一緒に探してくれるの、すごく温かい気持ちになりました…!「橋より先にペンだね」って言う澪ちゃん、めっちゃいい子すぎんか!?😭💖 そして絵の中の橋だけが現実よりも長く残ってて、完全には消えないっていうラスト、言葉にできないくらい好きです。雨の匂いだけで十分っていう磁馬くんの気持ち、すごくわかる… また雨の日に続きが読みたいです!次のエピソードも楽しみにしてますね🌸✨