朝、教室に入るとすでに空気が違う。
黒板には「今日の掃除」「係分担」と書かれた紙。そこにびっしりと並んだ自分の名前だけが、異様に浮いて見えた。
──黒板消し、雑巾、ゴミ捨て、窓拭き、プリント配り。
誰かがわざわざ赤ペンで丸をつけている。
「お前の仕事、忘れんなよ」と笑う声。
遥は黙って頷き、雑巾を絞る。声を出せば面倒が増える。笑えば笑ったで「気持ち悪い」と言われる。沈黙だけが、唯一の逃げ場だった。
授業が始まると、教師は黒板に向かって言った。
「平等は、努力した者に与えられるものだ」
クラス中が一瞬だけ笑う。誰も何も言わないけれど、その“平等”の意味がどこに向けられているか、全員が知っていた。
ノートを開いた遥の指が震える。
文字を書くたび、後ろの席から鉛筆が投げられる。
「字、汚ねぇ」
「手、汚れてるんじゃね?」
小さな声が連なって、笑いになる。
笑いが空気に溶け、やがて呼吸そのものが苦しくなる。
昼休みになると、机が動く音。
食事の輪ができる。遥の机だけ、少し離れて置かれていた。
「こっち来んなよ」
「お前の席、におうから」
ふざけているような声の裏に、確信的な悪意があった。
教師が通りかかる。
「どうした?」
クラスの誰かが笑って答える。
「こいつ、また弁当忘れたんです」
教師も笑う。
「だらしないな、そういうの直さないと社会で通用しないぞ」
──社会。
この狭い教室こそが、遥にとっての“社会”そのものだった。
誰もが同じ言葉で彼を責め、同じ表情で見下ろす。
「与えられる平等」を拒まれたまま、それでも働き続ける存在。
放課後。
「まだ残ってるだろ」
「机、拭き終わってねえよ」
「お前、使えねえな」
同じ声、同じ命令。
雑巾を絞る音と笑い声だけが教室に響く。
その笑いは、もはや遊びではなかった。制度だった。
──誰が最初に決めたのか。
誰も覚えていない。ただ、「遥がやる」が当たり前になった。
日が落ちる頃、ひとりで廊下を歩く。
窓の外では、部活の声。笑い声。走る音。
遥の靴音だけが、異物のように響く。
教室を出るとき、黒板の片隅に書かれた落書きが目に入る。
「奴隷」──その二文字。
誰の筆跡かはわからない。けれど、あまりにも自然にそこにあった。
指先でなぞる。
乾いたチョークの感触が皮膚に残る。
それを消すことはできなかった。
消した瞬間、もっと酷い何かが上書きされる気がした。
夜、帰宅しても何も変わらない。
兄弟が笑っている。母が遠くで叫んでいる。
テレビの音。鍋の音。
それらすべての中で、自分の存在だけが“透明な雑音”のように混ざっていく。
「どうして俺なんだろう」
小さく呟いた声は、自分のものとは思えなかった。
その言葉が空気に消えると、同時に胸の奥で何かが静かに壊れていく。
“人”であることを、少しずつ削られていくように。







