テラーノベル
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昼休みの教室。湿気を孕んだ空気が低く垂れこめて、笑い声と、わざとらしい物音が交差していた。
「……拾えよ、遥」
誰かがわざと机を蹴り、教科書を散らす。数人がそれを囲んで笑った。
教科書の上には靴の跡。椅子の脚も少し動かされている。見慣れた光景だ。
遥は、椅子に座ったままそれを見下ろしていた。
ただ、いつものように無言で拾うのではなく──その場に、静かに言葉が落ちた。
「……やめろよ」
誰かが笑い声を止める。乾いたざわめきが教室を横切った。
「え、今、なんて?」
声をかけたのは前の席の男子だ。にやついた顔。
遥はそちらを見ず、ただ俯いたまま、もう一度言った。
「やめろって言ってんだよ」
今度は、はっきりとした声だった。
抑えきれない震えが声に混じっていたが、明らかに“音”になっていた。
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
その沈黙の中、蓮司は遥を見ていた。
誰よりも近くで、誰よりも鋭く。
笑うと思った。
どうせまた、舌打ちして嗤うだけだと、教室中の誰もが思っていた。
──でも、蓮司は笑わなかった。
教科書を踏んだまま、ポケットに手を入れて、彼は立ち尽くしていた。
片方の眉が、ほんのわずかに動いた。それだけだった。
「……いいじゃん、拾えば。なあ、蓮司」
他の誰かが場を戻そうと笑いかける。だが蓮司は答えなかった。
遥は教科書を、ゆっくり拾い上げた。顔を見せず、言葉も足さずに。
だがその背中は、いつもよりわずかに張っていた。怯えではなく、硬く閉じた殻のようなもの。
蓮司の視線が、机に並ぶ文字へと落ちる。
どこにでもある教科書の紙面が、やけに白々しく映る。
──あいつ、言ったな。
そのことだけが、蓮司の中に引っかかった。
怒りではない。驚きでもない。ただ、うまく言葉にできない“ノイズ”のようなざらつき。
彼は笑おうとした。けれど、できなかった。
その日、蓮司は何も言わずに教室を出た。
振り返らずに、扉だけを乱暴に閉めて。
遥は、その背中を見ていない。
でもたぶん、感じていた。誰かの“形が崩れる音”を、皮膚で。
その音が、自分のものなのか、誰のものなのか、彼にはわからなかった。
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