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無名の灯 番外編

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無名の灯 番外編

40 - 第40話 沈黙の輪郭がずれた日

2025年07月22日

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昼休みの教室。湿気を孕んだ空気が低く垂れこめて、笑い声と、わざとらしい物音が交差していた。


「……拾えよ、遥」


誰かがわざと机を蹴り、教科書を散らす。数人がそれを囲んで笑った。

教科書の上には靴の跡。椅子の脚も少し動かされている。見慣れた光景だ。


遥は、椅子に座ったままそれを見下ろしていた。

ただ、いつものように無言で拾うのではなく──その場に、静かに言葉が落ちた。


「……やめろよ」


誰かが笑い声を止める。乾いたざわめきが教室を横切った。


「え、今、なんて?」


声をかけたのは前の席の男子だ。にやついた顔。

遥はそちらを見ず、ただ俯いたまま、もう一度言った。


「やめろって言ってんだよ」


今度は、はっきりとした声だった。

抑えきれない震えが声に混じっていたが、明らかに“音”になっていた。

教室の空気が、一瞬だけ止まった。


その沈黙の中、蓮司は遥を見ていた。

誰よりも近くで、誰よりも鋭く。


笑うと思った。

どうせまた、舌打ちして嗤うだけだと、教室中の誰もが思っていた。


──でも、蓮司は笑わなかった。


教科書を踏んだまま、ポケットに手を入れて、彼は立ち尽くしていた。

片方の眉が、ほんのわずかに動いた。それだけだった。


「……いいじゃん、拾えば。なあ、蓮司」


他の誰かが場を戻そうと笑いかける。だが蓮司は答えなかった。


遥は教科書を、ゆっくり拾い上げた。顔を見せず、言葉も足さずに。

だがその背中は、いつもよりわずかに張っていた。怯えではなく、硬く閉じた殻のようなもの。


蓮司の視線が、机に並ぶ文字へと落ちる。

どこにでもある教科書の紙面が、やけに白々しく映る。


──あいつ、言ったな。


そのことだけが、蓮司の中に引っかかった。

怒りではない。驚きでもない。ただ、うまく言葉にできない“ノイズ”のようなざらつき。


彼は笑おうとした。けれど、できなかった。


その日、蓮司は何も言わずに教室を出た。

振り返らずに、扉だけを乱暴に閉めて。


遥は、その背中を見ていない。

でもたぶん、感じていた。誰かの“形が崩れる音”を、皮膚で。


その音が、自分のものなのか、誰のものなのか、彼にはわからなかった。



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