テラーノベル
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日下部は、そのとき、走れば間に合った。
階段裏の陰、教室からは死角になるその狭い空間。
誰かが遥の腕をねじっていた。三人。名前も知らない。蓮司の指示かどうかも分からないが、それはもう“関係ない”ことだった。
遥は声を出していなかった。いつものように。
されるがまま、というより、ただ淡々と“終わるのを待っている”ようだった。
日下部は階段の上にいた。下を覗けばすぐに見える距離。
でも、その足は動かなかった。
なぜだ。
──違う。
分かっている。動かないんじゃない。動きたくなかったんだ。
手を伸ばせば、また何かが変わる。
でも、それは「遥のため」じゃない。
「そうしてしまった自分」のために過ぎない。
だから、踏み出さなかった。
やがて三人のうちのひとりが笑いながら去っていく。
最後に蹴ったのは、遥の背中だった。音が乾いていた。
誰も気づかなかった。
その場にいたのが自分だけだったことに、日下部は吐き気がするほどの安堵を覚えた。
それから数分後、遥は立ち上がった。
何も言わずに、制服の裾を払って、ふらつきながら歩き出す。
日下部はようやく階段を下りた。だが声はかけられなかった。
彼が去ったあとの、その場に、ただひとつだけ落ちていたものがある。
──遥のペン。折れた芯が刺さったまま。キャップも外れていた。
それを拾った手が、やけに冷たかった。
どうして、こんなにも冷たいんだろう。誰のせいでもないのに。
日下部はペンを握ったまま、何も言わずに胸ポケットにしまった。
その夜、夢の中で何度も同じ場面が再生された。
あの階段裏。手を伸ばさなかった自分。そのあとに響いた乾いた音。
でも、夢の中でもやはり──
彼は立ち尽くすだけだった。
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