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ノックの音は、やけに小さかった。
「……開いてますけど」
日下部がそう言ってもしばらく反応はなかった。重たい静けさが数秒あって、ようやく扉がわずかに軋んだ。
「こんにちは……あ、すみません。やっぱり、帰った方がよかったですかね」
ドアを閉めかけながら、それでも少女は入ってきた。閉じるか開けるか、迷ったままの動き。そのまま、足だけが中へ進んでしまった、というふうに。
「帰れとは言ってないけど」
「……あ、ですよね。すみません、変なこと言って。変なこと言うの、癖で」
笑った。明るい、ように見える笑いだった。ただし、頬と唇と眉がそれぞれ別の表情をしていた。目元は薄ら寒いほど冷えていたし、スカートの裾をいじる指先だけが、明らかに泣いていた。
「先生じゃないのに相談室って、なんか不思議ですね。なんでですか? ……冗談です。いちいち答えなくていいです、あは」
笑うたびに、その輪郭が壊れていくのがわかった。目の前にいるのは“元気そうな子”じゃない。“元気そうに”しすぎて、もうどれが本音か自分でもわからなくなっている子だった。
日下部は座れとも言わない。少女は勝手に腰を下ろし、勝手に話し始める。
「わたし、学校ではけっこう“明るいキャラ”なんです。どんな話題でも笑えるし、笑いにできるし。たぶん、便利なんですよね。あ、でも、そこまで嫌じゃないです。いまさら嫌とか言える段階じゃないですし。ていうか、嫌だって言ったらめんどくさいって思われるし……ね? だから、こうして笑ってた方が、ずっと、ずっと、楽じゃないですか」
そこまで一息に言ってから、少女は唐突に口を閉じた。目線を伏せ、指先だけでスカートの皺を延々と撫でている。
「……楽じゃないけどね」
ぽつりと、独り言のようにそう続けたあとで、初めてこちらを見た。目の奥だけが泣いていた。赤くもない、涙も出ていない。けれど、ひどく“濡れて”いた。
「誰にも言ったことないですけど、今日、ちょっとだけ……誰かに怒られたくなって。叩かれてもいいから、止めてほしくなって。でも、誰にも言えないってわかってるから、こうしてるんです。あは。ねえ、どうします? これ、笑えます?」
笑っていた。けれど、それはもう“癖”ではなかった。そうするしかないと思い込んで、笑うしかなかった。
日下部はその場でゆっくり立ち上がると、窓を少しだけ開けた。風がひゅう、と音を立てて吹き込んでくる。彼女の乱れた前髪が揺れた。
「……そういうの、あんまおもしろくねえよ」
その言葉に、少女は瞬きをした。
「……え?」
「笑いってのは、自分で面白がってこそだろ。他人のためにするもんじゃねえよ。少なくとも俺は、無理して笑ってるやつを見ても、全然笑えねえ。むしろ冷める」
沈黙。少女の笑顔が、ゆっくりと剥がれた。
「……そんなこと、誰にも言われたことない」
「そりゃそうだ。お前みたいなやつ、普通は気づかれねえ。笑ってりゃ大丈夫だと思われて終わりだ」
「……」
「でも、俺は見たことある。似たようなやつ。――ちゃんと、壊れる瞬間も」
それは遥の話だ、とは言わなかった。けれど、彼女の目がふっと揺れたのは、その言葉が嘘じゃないと、なぜか分かったからかもしれない。