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日下部の背が角を曲がって見えなくなると、遥はしばらく庭に立ち尽くしていた。月の白光は静かに降り注ぎ、裸足の足裏から冷えが這い上がってくる。外気に救われるような心地と、これから戻らねばならない場所への嫌悪が胸の奥でせめぎ合う。
やがて、家の中から笑い声が漏れた。低く押し殺したような笑いと、甲高く響く声が絡み合う。晃司と颯馬だ。何かを隠すように密談し、獲物を待つ獣のように気配を漂わせているのが、扉越しにさえ伝わってきた。遥の背筋が強張る。
――帰らなきゃ。
分かっている。逃げ場など、ない。
静かに玄関の戸を押し開ける。わずかに軋んだ音が響き、それに応えるように家の奥から「おかえり」という声が飛んできた。軽やかな、しかし底の抜けたような声。颯馬だ。
「遅かったじゃん、遥」
リビングに足を踏み入れると、ソファに胡座をかいていた颯馬が振り返った。まだ中学生の顔立ちに残る幼さは、笑みの下で歪み、無邪気と残酷さを同居させている。
その隣で晃司が煙草を指に挟み、長い脚を組んでいた。白い煙がゆらゆらと立ちのぼり、薄暗い照明に曖昧な影を落としている。
「どこ行ってた?」
晃司の声は静かだった。だが、その低い調子が余計に遥の胸を締めつける。問いではなく、詰問だ。返答の余地を与えない調子。
「……ちょっと、外に」
遥は足元を見たまま答える。芝生の湿りがまだ残る裸足が床に触れ、ひやりとした。
「外ぉ?」
颯馬が面白がるように繰り返す。
「夜中に一人で? お前、何隠してんの?」
「別に……」
言葉は掠れ、口の中で溶けた。
その瞬間、ソファから晃司が立ち上がった。大きな影がすっと伸び、遥の視界を覆う。
「別に、で済むと思ってんのか」
低く落とされた声に、遥の喉が凍りつく。晃司の眼差しは冷たく、そこに兄らしい温もりなど欠片もない。
颯馬がくすくすと笑う。
「ほら、言えよ。どこ行ってたのか。俺らに隠すことなんて、ないだろ?」
追い詰められるように、遥は後ずさった。背中が壁に触れる。逃げ場を失ったことを悟った瞬間、胸の奥が軋む。
「……別に、誰にも会ってない」
苦し紛れに口をついた言葉。だが、その嘘はあまりに脆かった。
「誰にも?」
晃司の目が鋭く光る。
「日下部とだろ」
遥の息が止まった。頬がかすかに強張り、そのわずかな変化を見逃す二人ではない。颯馬が手を叩いて笑う。
「やっぱり! 庭で声、聞こえたんだよなあ。隠すの下手くそ」
「……ちが……」
否定しようとした声は震え、かえって確信を与える。
晃司が歩み寄り、肩を掴んだ。硬い指が肉に食い込み、遥の身体がわずかに揺れる。
「お前、俺らを差し置いて、あいつに何を話してる?」
吐き出す息が熱く、耳元に落ちた。
「勝手に喋ってんじゃねえぞ」
遥は必死に首を振った。
「なにも、話してない……!」
「へえ、なにも?」
颯馬が近づき、すぐ目の前で覗き込む。
「じゃあ、いま何してきたか言ってみろよ。言えないんだろ?」
沈黙。胸の奥で、日下部の声がかすかに蘇る。
――「俺は聞きたいんだ」。
その願いを思い出した瞬間、言葉は喉元まで上がってきた。だが、目の前の二人の圧に押し潰され、吐き出せない。
晃司の手が遥の肩から首筋へと滑り、軽く押しつけるように壁に追いやった。力はそれほど強くない。それでも、支配の意思は十分に伝わる。
「嘘をつくな」
短い言葉が鋭く刺さる。
颯馬の笑い声が、密室の空気をさらに濁らせた。
「なあ、兄貴。こいつ、ほんとは日下部に全部話してんじゃない? 俺らのこととかさ」
「……ちがう……」
遥の声は震え、ほとんど掠れていた。
晃司の目が細まり、顎をわずかに上げる。
「いいか。お前は俺らのもんだ。他に余計な口を利くな。分かったな」
頷くしかなかった。頷かされるしかなかった。
頷いた瞬間、胸の奥で何かがひび割れる。日下部に向かって心の膜が揺れたあの夜風の感触が、遠いものに押しやられていく。
颯馬が満足そうに笑い、晃司の手がようやく離れた。だが、残された痕跡は熱のように首筋に残った。
リビングの灯りがやけに白く、逃げ場のない光で全身をさらしていた。