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桜の花は満開で、それに続けと他の花々も蕾を膨らませてはいるが、春の到来まではまだ少し早いのか、明け方は肌寒い。
櫻子も、その寒さに負けて目が覚めた。
いつのまにか眠ってしまったようだった、が、はっと、腰に手をやった。
そんなことをしなくても、背中で感じていた人肌の温もりはなく、一人で眠っているのは分かったが、振り返りそれを確かめるのには勇気がいった。
恐る恐る起き上がると、やはり、隣は、もぬけの殻だった。
広いベッドの真ん中を、櫻子が陣取っている。そして、あの繋がれていた腰ひもがポツンと置かれてあった。
昨夜の事を思い出し、また、顔が火照った。
金原とは何もなかったが、歳もそう変わらないだろう若者と、同衾《どうきん》し、抱きしめられて眠った。決して、ただそれだけの事、で終わる話ではなく、櫻子には、十分過ぎるほど刺激的な出来事だった。
自分の身に、何が起こっているのか、教えてもらいたかった。一夜にして、暮らしぶりはあまりにも変わってしまった。いや、櫻子の置かれている立場が、だろう。実のところ、そこがどうも分からない。
取りあえず、女中にしてくれと頼んだのだ。女中として、ここで働こう。櫻子は決心する。
昨夜は、逃げ出すことも考えた。確かに、それも良いだろう。でも、どうする?
路地裏の行き止まりに追い詰められ、進むにも進めないと、焦る櫻子を、冷ややかに笑い飛ばす金原の様子が、目に浮かぶ。手には、銃《ピストル》を持って──。
ひとまず、腰を落ち着け、ここの事を知ろう。そして、いつでも、逃げられるように、道筋を立てておく。身に危険が近づいたら、飛び出せば良い。
櫻子が覚悟を決めたその時、ガタガタと、入り口の板戸が鳴った。
慌てて、ベッドから降り、さて、どうすればと、迷っていると、立て付けが悪いとブツブツ言いながら、板戸を開けてお浜が顔を覗かせた。
「あれ!奥様!こんな早くから起きなくても。まだ、寝ててくださいよ。お着替えの準備に来ただけですからね。昨日は、ばたばたしていて、着替えも出来なかったし、何がどこにあるのかも、伝えられませたからねぇ」
昨日、と言って、お浜は、気まずそうにする。
確かに。
櫻子も、どう声をかければ良いのか、戸惑った。
しかし、お浜が、作った握り飯が、視界に飛びこんで来て櫻子へ、言うべき事を教えてくれた。
「あ!あの!お浜さん!わ、私、女中に雇ってもらいました。ですから、これから、よろしくお願いします!」
ぺこりと、頭を下げる櫻子へ、お浜の悲鳴のような声が降りかかる。
「な、なんですかい!!女中って!!」
「はい、社長に昨夜頼んだのです」
「た、頼んだのですってね、奥様、頼む事が、違うでしょうにぃ!女中って、女中ってのは、どういうことか、わかってんですかぃ?!」
何がなんだかと、お浜は、目を白黒させながら、櫻子へ食ってかかる。
「いや、あの、お奥様、そのですねぇ、と、とにかく、着替えましょう!結局、昨日は、風呂にも入っていないし、朝風呂の用意してますからね、今、キヨシが、入ってますから……」
と、言いながら、お浜は、ん?と言い含む。
「……そうか、女中!奥様!そうですかっ!なら、早く、キヨシの所へ行かないと!お背中お流ししますわ、なんてーの、二人してやりたいわけか、キヨシのやつぁー!」
やだねぇ、色ボケが入ってるよ、全く。と、やっぱり、お浜は、お浜だった。
きっと、また、なにかを勘違いしていると、櫻子も苦笑いしつつ、
「お浜さん!朝餉は、この握り飯で、粥か、雑炊か、作りましょう。残ってしまって、もったいないわ」
と、皿をつきだす。
「……あちゃーー、こりゃまた、日差しの下で見ると……。我ながら、ひどいもんですねぇ」
お浜は、額をペチンと叩いて、小さくなった。
「でもね、奥様。まずは、着替えですよ。そのままでは、あたしが、キヨシに噛み付かれるんでねぇ」
ズカズカと部屋へ入り込んだお浜は、箪笥の引き出しをすべて開けた。
「一通り揃ってます。お好きなのを選んでくださいな」
「え?!」
箪笥の中身は、まるで、呉服屋かと見まがうほど、立派な着物が並んでいた。
「……こ、これ……」
あまりにも、艶やかな様子に、櫻子は、言葉がなかった。
「好みがわからないんでねぇ、取りあえず、流行りのもので、そろえたんですけどね。寸法は、おおよそ大丈夫そうですねぇ。下見に行かせてましたから、だいたいの所で仕立てておきましたけど、うん、あたしが見た限りでも、いけそうだ」
さて、どれが良いかと、楽しげに着物を選び始めたお浜の後ろで、櫻子は、呆然としていた。
下見に……ということは、そうだ、表の掃除をしていた時に、龍に声をかけられた。それより前にも、怪しげな男が、声をかけてきていた。
つまり、金原は、ずっと、以前から、櫻子を見張っていたことになる。
手強い。
ふと、櫻子は思う。
どうして、ここまで、手を回すのだろう。
差し押さえる為とは何か違う理由があるような、そして、金原という男は、何を考えているのか、櫻子は気になった。
もしかしたら、とてつもなく、大きな罠がはられているのかもしれない。
やはり、今は従っておこう。
女中として、裏方にいれば、ここの事もわかるはすだ。
そして、口の軽い、お浜がいる。上手く行けば、お浜から、色々聞き出せるかもしれない。
不本意ではあるが、馴染む事が必要だと、櫻子が決意を新たにした所で、そのお浜が、弾んだ声を出す。
「……こんな所で、どうでしょうかねぇ?」
引出しから取り出した、洒落た着物と帯が床にずらりと並べられていた。