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嘘よ……。
私は俊の裏切りを許さないと今の苦しみから解放されないっていうの?
何もしてない自分がどうしてこうも理不尽な目に合わねばならないのか。
涙枯れるほど泣き続けた桃の瞳から、残されていた最後の光までもが
すっかりと影を潜めてしまった。
退院してからの第一回目の診察では思いもかけないことを女医から指摘されたため、
取り乱してしまった桃だったが、2回目の診察では落ち着きを取り戻し
素直な姿勢で女医の言うことに耳を傾けた。
……というより、そのように振舞ったというほうが正しいかもしれない。
違うと異論を唱えて嫌な雰囲気になるより、自分の意見を強く主張せずに
『そうですか、そうですね。分かりました』
と無難に診察をやり過ごし、早々と病院との関わりを断ち切って
しまいたかったのである。
女医には感謝している。だが、桃はこれ以上苦しい思いをしたくなかった。
相手はプロの精神科医である。
桃は診察時には心からそう自分は思っていると暗示をかけて臨んだ。
実際女医が自分の言うことをどこまで真面に受け取ったかは
分からないが、三回めの診療を受ける指示はなく無事女医の元から
本当の意味で退院できたのである。
◇ ◇ ◇ ◇
両親との暮らしも半年を過ぎた頃、 先々で懐に余裕ができれば、奈々子を
連れて実家を出ていこうと考えていたのだが、あんなに最初は桃が出戻ることに
難色を示していた母親がその話をした折に、すっかり娘と孫のいる暮らし向きに馴染み
(慣れ親しんだ結果)居心地がいいらしく
『奈々子もまだ小さいし、家に帰って誰も居ない鍵っ子にするのは可哀そうだ、
その点ここなら私がいるのだから』
と、奈々子が小学生の間はここにいればいいと言った為、桃はそうすることに決めた。
今は俊からの婚費もある、家のことは娘の自分がしているので
母親の都合の良い時に孫と関われて母からすると今のこの生活が楽なのだ。
だが、実際に自分が働きに出るようになれば母親の気持ちにも
変化が起こるかもしれない。
いくら奈々子を保育園に預けるといっても、送迎や病気の時、自分が
仕事から帰るまでの間の子守など、小さな子がいるとどうしたって
手を取られるのは目に見えているからだ。
その時は今度こそ、桃は奈々子と一緒に実家を出ていく心づもりでいた。
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◇知らなかった真実
あの傷害事件から3年が過ぎた頃のある日のこと。
桃は近所のスーパーでチェッカーとして時短勤務していて、籍は抜かず
俊から毎月の婚費を振り込んでもらいつつの生活を続けている。
ちゃんと離婚して籍を抜くつもりだったのだが、別居して
婚費をもらいながらの生活に落ち着いていた。
その理由として一番に娘の奈々子の存在が大きかった。
両親からの、離婚はいつでもできるのだから別に好きな男性でも
できればその時に考えればいいという意見と、奈々子にはできれば父親は
必要だよと言われたことが大きかった。
それと実際悔しいけれど、毎月の婚費は有難かった。
時短で働けるので身体も楽だし、また何より娘との時間が多く取れることは
大きな救いだった。
この日は午後から桃が休みの日で、勤めているスーパーで買い出しをして帰り、
母親と一緒に晩御飯の準備をしていた時のこと。
「ねぇ、桃ぉ~、毎月婚費がいただけて有難いよね」
「うん、そう……だね」
「そろそろ、俊くんとやり直してみてもいいんじゃない?
めちゃくちゃいい人じゃない。
自分を許しもしないあんたにさぁ、毎月きちんきちんとそれなりの額を
振り込んでくれて。
まぁ、自身の娘の為でもあるとは思うけど。
浮気してもこれっぽっちも反省しないヤツとか、別居してても
婚費出さない人の方が多いって聞くもの」
「何言っちゃってるの、止めてよそういうの」
「俊くんはちゃんと反省もしてるし、誠意も見せてくれてるじゃないの。
あの時のことだってあんたの思い過ごしで、俊くんは恵子に嫌々呼び出されて
会ってただけなのにあんたに刺されちゃって。
でも悪いのは元々自分だからって訴えなくて、あんたは刑事罰免れてるじゃない。
いくら桃が錯乱状態で精神不安定だったからって、訴えられてたら
ややこしいことになってたかもしれないんだよ?
十分桃は俊くんに大事にされてると思うわよ。
そろそろ考え直したほうがいいんじゃないのかなぁ~」
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「ね、今言ったこと、なに?」
「だ・か・ら、やり直した……が」
「違う、そこじゃないっ。
俊が恵子に嫌々呼び出されたってところ。
何勝手に捏造してんのよ。
それに、独立して奈々子を連れてゆくゆくはこの家を出ていくって言った時に、
当分この家にいればいいって言ったのはお母さんでしょ。
今頃になって追い出しにかかるなんて酷いじゃない。
そんなこと言うならお母さんがヨボヨボになった時、面倒なんてみないからね」
「んまぁ~、なんてことを、この子は……。
分かった分かったから、落ち着きなさい桃。
変ったわね、桃」
「誰でも変わるわよ、自分を守る為ならね。
今後、私に何か言う時はよく考えて言葉にしたほうがいいわよ。
私が鬼にも蛇にでもなれるのを知っているでしょうに。馬鹿なの?」
母親から今回家に帰ったほうがいいのでは? と忠告されるまでは
大人しくしていた桃だが、まるで忠告を装った実家からの追い出しだと
思った桃はこれまで内包していた激しい自分で対抗した。
あの日、どれほどの気持ちであのような行動に出たのかを母親はちっとも
理解してなかったことを再認識し、桃の中で母親に対する愛情のゲージは
ほとんどなくなった。
後少しでゼロになりそうなところまできているのだ。
物言いも激しくなるというもの。
「桃、違うのよ、違うったら。
そんなに感情的にならず話を聞いて」
「今更なにを……」
「ずっとね、話す機会があればって思ってたんだけど。
桃の様子を見てたらなかなか言い出せなくて、だけどこんなにボロクソ
言われて決心がついた。
だから今話しとく」
「……」
戦闘モードをなかなか解除しない娘を前に、康江は今まで口にしなかったというより、
その機会のなかった真実を語る決心をした。