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午後の陽が傾きはじめ、校舎の窓に淡い橙が滲んでいた。

日下部は廊下の端、誰もいない物理準備室の前で立ち止まる。

ドアの隙間から、微かに聞こえる金属の音――キャップを閉めるような、乾いた小さな音。

中にいるのが誰かは、もう分かっていた。


 「……遥」


ドアを開けると、窓際の机に寄りかかっている遥が振り向いた。

袖を下ろす途中だったのか、手首のあたりがまだむき出しで、そこに青黒い痕が淡く浮かんでいた。

指先が、震えている。


「なんでここに」


声が掠れていた。


「……日下部こそ。サボり?」


いつもの調子を装っている。

けれどその笑い方が、どこかぎこちなかった。

日下部は何も言わず、机の上に置かれた包帯の切れ端を見つめた。


「それ、どうしたんだ」


「……ぶつけただけ」


即答。だが、目が逸れている。


嘘をつくのが下手なやつだと、ずっと思っていた。


「颯馬か」

名前を出した瞬間、遥の肩がわずかに跳ねた。

静寂。

夕陽が二人の間を斜めに切り、埃が金色に光る。


「……関係ない」


やっとのことで絞り出された声は、かすれていた。


「アイツは……ただ、ちょっと」


「ちょっと、じゃない」


日下部の声が低くなる。


「この前も、歩くの痛そうだった。階段、手すりに掴まってたろ」


遥は唇を噛んだ。

沈黙。

それが答えになっていた。


日下部はゆっくりと歩み寄り、袖口に指をかける。


「やめろ」


遥が反射的に手を引く。

だが、その動きが遅れて、布の隙間から腕に走る細い痕が一瞬だけ覗いた。


赤紫。

まだ新しい。

まるで誰かに爪を立てられたような――。


「……何があった」


日下部の声は震えていた。


「お前、昨夜――」


「言うな」


遥が遮った。

その顔には、怒りでも涙でもない、ただ“諦め”だけが滲んでいた。


「言ったって、どうにもならない」


「俺が何もしないって思ってるのか」


「思ってる」


間髪を入れずに返された言葉。

それが刃のように胸に突き刺さる。


日下部は、拳を強く握った。

遥の言葉が正しいのかもしれない。

自分はただ、傍で見ていることしかできない。


それでも――。


「……だったらせめて、隠すな」


静かな声。


「見えなくても、痛いのは分かる」


遥は、少しだけ目を伏せた。

長い沈黙ののち、かすかに笑った。


「……お前、ほんとバカだな」


その笑みの奥に、痛みと安堵が混ざっているのが分かった。

夕陽が完全に沈む頃、教室の影が二人を包み、

遠くでチャイムが鳴った。


無名の灯 恋愛編2

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