部屋を出て洗面所で顔を洗うと、インターフォンが鳴った。
ピーンポーン
完全にすっぴんなうえに目が赤いのは鏡を見てわかっていたが、荷物を受け取るくらいならまあいいかと思った。
低反発マットを買ったのだ。
無職のくせにと自分に言い聞かせて我慢していたが、最近はあまり眠れないし、そこまで高価なものじゃなければいいかと。
今日の午後に届くことになっている。
私はパタパタと玄関に向かった。
「はーい」
ドアを開けると、筒状の段ボールに肩肘を置いて立つ匡がいた。
「お届け物でーす」
「は……?」
「なに、これ、お前の?」
よっと両手で筒を持つと、私を押しのけて玄関の中に入る。
「ちょっと!」
「お邪魔しまーす。お前の部屋、上?」
「匡!」
ドアを開けっ放しにしておくわけにもいかず、後ろ手に閉めた。
その間に、匡は靴を脱いでいる。
「ちょっと! どういう――」
「――ほら、こんなん玄関に置いといたら、邪魔だろ。結構重いし、運んでやるって」
玄関のすぐ脇にある階段下で筒を抱えている匡は、なぜか楽しそうだ。
「なんであんたが受け取ったのよ」
「ん? ああ、お父さんの名前を書いた」
「は?」
「表札見て」
「……ああ」
実家の表札は、父のフルネームの木彫り。
その下に、昔私が図工で作った表札がぶら下がっている。家族全員の名前が彫られた表札を友達の家で見て、母と私の名前を彫った。
お父さん、自分が仲間外れみたいだって不貞腐れてたっけ。
とにかく、匡が父の名前をサインして荷物を受け取ったことは分かった。
私は、はぁっと小さく弾むように息を吐くと、筒と匡を避けて階段を上がる。
父と母の寝室のドアが開いていないか確認してから、自分の部屋のドアを開ける。
「あ、ここで出して」
廊下で段ボールの中からマットを出し、部屋の中で広げる。
「上に布団敷いて伸ばしておいたほうが良くないか?」
そう言うと、私の許可を待たずに部屋の隅に三つ折りに畳んである布団をマットの上に広げる。
「ちょっと! 何勝手に――」
「――ついでに寝心地も試そうぜ」
「はぁ!?」
手首を掴まれたが、力を込めて振り解こうとする。が、あっさり抱き寄せられた。
「匡!」
「死ぬ気はなさそうだな」
「そんなわけ――」
「――良かった」
はぁっとゆっくり吐き出された息が耳たぶをくすぐる。
本気で、私が死のうと考えるなどと心配していたのだろうか。
再会してから、私はそんなことを口にはしていない。
そもそも、考えたこともない。
「既読スルーとか、ヤメロ」
そう言いながら、私を抱きしめたまま匡の身体がゆっくりと傾く。
ドサッと大人二人の身体が密着したままマットに沈む。
「やべ、寝そう」
「寝ないで。帰って」
「親、何時に帰ってくんの」
「もうすぐ」
「挨拶しなきゃ」
「やめて」
「大人ですから」
「大人はいきなり押しかけてきて人の布団に寝たりしません」
「好きだよ」
「……私は好きじゃない」
「天邪鬼」
「もう、いい加減――」
もぞもぞと押さえつけられた腕を動かして彼の脇腹を掴み、押し離そうとするが動かない。
すぅっと穏やかな息遣いにまさかと顔を上げる。
「――噓でしょ」
目を閉じた匡は、眠っているように見える。
「ねぇ! 寝ないでってば」
「既読スルーのせいで寝不足なんだよ」
人のせいにしないでよ。
今更だが、匡はスーツ姿だ。ネクタイこそ締めていないが、艶のある黒に薄いグレーの細いストライプが入ったデザイン。
柔らかくて窮屈そうもない生地は手触りもよく、上質だ。
マンションもそうだが、今の彼は実家を出ても裕福らしい。
そういえば、今何をしてるかは聞いてないな……。
程よい柔らかさで身体を包み込んでくれるマットと、暖かくて力強いぬくもり。さっき泣いたせいか、瞼が重い。
ゆっくりと瞬きを繰り返すうち、開くのが億劫になった。
その上、懐かしい微かなシトラスの香りがして、私は抵抗をやめた。
昔も、こうして天気の良い日に抱き合って昼寝すると幸せを感じた。
あの幸せがずっと続くって……思ってた……な。
あの頃の私に言いたい。
いつまでもある幸せだと思うな、って。
大切なものを見失うな、って。
意地を張るな、って。
私、ダメダメじゃん……。
そう思うと、また涙が溢れた。
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