テラーノベル
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#ハッピーエンド
26
それまでびくともしなかった光の壁に、初めて揺らぎが走った。縁が波打ち、薄い筋が走る。オットーのシールドが揺れた。
「……すまん」
オットーは苦笑する。額から汗が落ち、鼻先で弾けた。顎を伝い、鎧の縁へ吸い込まれる。
「俺も……もう限界みたいだ……!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ!!
光壁が点滅する。明滅の間隔が詰まり、壁の奥が透ける瞬間が増える。
ゴブリンの咆哮が狭い通路にこだました。
次の瞬間、全員が一斉にシールドへ飛びかかる。
ガガガガガッ!!!
光が軋む。耳に痛い振動が床から上がり、足裏が痺れる。
(まずい……!)
ダリウスは歯を食いしばる。口の中が鉄の味になる。
手にはオットーの予備の斧。柄を握っても、この幅では振れない。天井が低く、肘が当たる。
(斧もダメ、前衛は崩壊寸前……
エドガーは倒れたまま……
どうすれば……?
俺たち、準備した。揃えた。
なのに……こんなところで……?)
息が浅くなり、胸がつかえる。視界の端が揺れる。指先に力が入らず、斧が少し下がった。
その時。
「待って!!」
ミラの声が通路に響きわたった。
「私に、まかせて!!」
ミラの膝が小さく震えている。それでも前に出る。唇を噛み、顎を上げた。
ダリウスとオットーが同時に固まる。
「ミラ……?」
ミラはそれぞれにポーションを放り投げた。瓶が空を切り、手に収まる音が硬い。
「ダリウス! オットー!
これ飲んで!! 少しでも前線を維持して!!」
オットーは受け取って呆然とする。目が一度だけ泳ぐ。
「い、いけるが……どうするんだ……?」
ダリウスは戸惑いながらもポーションを握りしめる。握った手が白い。
「……任せてもいいのか?」
ミラは強く頷き、言い切った。
「任せて……! 私がなんとかする!!」
ダリウスは迷わずシールド前へ戻った。足を引きずる音が混ざる。
オットーは歯を食いしばり、壁に体重を預けるように押し返した。腕が震え、肩が跳ねる。
「くそぉおおおおおお——ッ!!」
膝が沈む。だが踏み直す。
光壁は点滅を繰り返し、明るい瞬間が短くなる。
その刹那。
「……ん、 ぁ……?」
通路の後ろから、微かな声がした。
「エドガー!?」
ミラが振り返る。
エドガーがゆっくり身体を起こしていた。肘が床を探り、何度か滑って、ようやく支えになる。目は虚ろだが唇が動く。
「……詠唱……途中で、 途切れてましてね……
もう少しで……全部……」
エドガーは震える手で虫眼鏡を拾い上げた。指がうまく閉じず、一度落としそうになって掴み直す。
もう一度魔導書を開く。ページの端を押さえる手が痙攣している。それでも声をつなぐ。
ミラが叫ぶ。
「ダリウス!! 下がって!!」
ダリウスは反射で退く。片足が一瞬もつれ、壁に肩が当たる。
オットーは限界のシールドを張ったまま踏ん張る。喉の奥が鳴り、息が漏れる。
「エドガーーーッ!!」
ダリウスの叫びが背に届く。
エドガーは片目を細め、低く呟いた。
「——《焔葬陣》」
ズォォォォォォォォ!!
炎が通路いっぱいに解き放たれた。熱が皮膚を叩き、松明の光が負ける。
ゴブリンは声を上げる間もなく消し炭になった。炎が引いたあと、床に黒い粉が降り積もる。
残ったのは焦げた匂いと静寂だけだった。
戦闘が終わっても、しばらく誰も動けなかった。
喉が乾き、咳をしたくてもできない。
狭い洞窟に立ちこめる焦げた匂い。
消し炭になった残骸。
そして静寂。
オットーは地面に手をつき、肩で荒い息をした。指が震え、掌が砂利に食い込む。
エドガーは壁にもたれ、頭が傾いたまま戻らない。
ダリウスは片膝をつき、刺さった矢の痛みに呼吸が乱れる。口の端が引きつり、額に汗がにじむ。
ミラだけが立っていた。足は揺れるが、倒れない。両手が胸の前で握られている。
ダリウスは苦しげに顔を上げ、絞り出すように言った。
「ミラ……魔物が来ると……やばい。
頼めるか……?」
ミラは息を整え、頷いた。唇が小さく上がる。
「ええ、もちろんよ」
胸元のネックレスに手を添える。小さな女神像の彫刻が施された銀の飾り。
ミラは目を閉じ、その像をぎゅっと握りしめた。指の関節が白い。
「——女神よ、 御手にて視線を覆い給え
《見えざる聖幕(せいまく)》」
空気がひやりとする。肌の汗が冷える。
次の瞬間、周囲に透明な膜が張り巡らされた。松明の光がわずかに歪む。
遠くで唸り声がした。足音が近づきかけて、離れていく。
音だけが通り過ぎた。
ダリウスは大きく息を吐いた。肩が落ちる。
「……助かった」
「次はダリウスの番よ。足、 見せて」
ミラは迷わずしゃがみ込み、ダリウスの足に刺さる矢をそっと掴んだ。
ダリウスは頷く。喉が鳴り、唇が乾く。
「頼む」
ミラは矢を見つめ、真剣な表情で宣告した。
「死ぬほど痛いからね」
ダリウスは口角を上げて笑う。
「……慣れてるよ」
ミラは一気に矢を引き抜いた。
ズバッ!!
「——ッ……くっ!」
ダリウスの顔がひきつり、呻き声が漏れる。肩が跳ね、指が床を掴む。
血が地面に滴り落ち、暗い石を濡らす。
「はい、 次——」
ミラはすぐにネックレスを握りしめ、目を閉じた。声が少しだけ柔らかい。
「女神よ、 痛みを撫で給え
《癒光》」
淡い金色の光が足を包む。熱ではない。じんわりとした感覚が皮膚の内側から広がる。
血が止まり、傷口がふさがっていく。最後に光が薄れ、跡だけが消えた。
ダリウスは目を瞬かせる。足首を一度動かし、眉を上げた。
「……すごいな。治療痛が全くない」
ミラは胸を張って微笑んだ。
「でしょ?」
しばらく誰も言葉を出さなかった。
洞窟に残るのは三人の荒い息だけだ。焦げた匂いと岩の冷気が混ざり、鼻の奥に残る。
呼吸が少し落ち着いた頃。
オットーが眉を寄せた。
「しかし……ミラ。どういうカラクリだ?」
ダリウスも腕を組み、首を傾ける。
「どうやってエドガーを起こした?
マナポーション飲ませられなかったろ?」
視線が一斉にミラへ向いた。
エドガーは自分の名が出た瞬間に視線を逸らし、口をへの字に曲げた。魔導書の角を握り直す。
ミラはぱっと顔を上げた。濡れた頬のまま、口角だけを先に持ち上げる。袖で拭うより早く笑顔を貼りつけたせいで、目の縁の赤さだけが取り残された。唇の端が少し震えたが、それでもぐいと引き上げて、いつもの調子みたいに見せる。
「どうって口移しよ! それしかないじゃない!」
ダリウスとオットーが同時に叫んだ。
「「なっ!?」」
ダリウスの耳まで赤くなる。喉が詰まり、手が宙で止まった。
「そ、それって……キ、キス……。
だ、大丈夫……なのか!? その……問題とか……!」
ミラは胸を張って言い放った。張った胸が小さく上下している。笑っているのに、息だけ少し浅い。
「平気よ!
ちょっとだけ——エドガーの息が臭かっただけだよ!」
エドガーの顔が白くなる。肩が抜け、体が横へ傾いた。
「そんな……馬鹿な……私は毎朝……ミント……ティーを……」
オットーは腹を抱えて笑い、背中を叩いた。
ダリウスは呆れたように頭を抱えた。
「そ……そうか……」
ダリウスは一度だけ息を整え、顔を上げる。声が落ち着く。
「……今日はここで野営にしよう。
全員消耗が激しすぎる」
オットーは無言で頷いた。
エドガーは口を結んだまま俯き、虫眼鏡をケースに戻す手が遅い。
ミラは結界の中でにっこりと笑う。目はまだ赤い。
水滴の音が戻ってきた。遠くで足音が一度だけ響き、また遠のく。
結界の境で音が鈍くなる。
オットーとエドガーは毛布にくるまり、すぐ寝息を立てた。オットーは喉を鳴らし、エドガーの呼吸は浅く規則的だ。
ダリウスも横になり、腕を枕にして天井を見る。首を動かすと、痛みが遅れてきた。矢の跡を指で触り、すぐ手を引く。
隣から小さな音が聞こえた。水滴の音とは違う。
短く吸って、止めきれずに漏れる。繰り返しだ。
「ミラ……」
ダリウスは天井を見たまま呼びかける。
ミラは背を向けたまま返した。
「……なに、ダリウス……」
言葉の途中で息が引っかかる。
「お前がいなければ……全員、死んでた」
ミラは返事をしない。肩だけが小さく揺れる。
手が胸元へ行き、ネックレスを握りしめる。
「すまなかった……本当に」
ミラの啜り泣きが強くなる。顔を伏せ、髪が頬に貼りつく。
ダリウスは起き上がらない。声だけを落とす。
「もう、こんなことには……しない。絶対にだ」
間があった。
ミラの声が、泣き声のまま震える。
「……うん……。でもね……
もし同じことが起こったら……
わたし……やっぱりまた同じことすると思う……」
ダリウスの指が毛布の端を握る。力が入って、布がよれる。
「だって……みんなに……死んでほしくないから……」
ダリウスは息をゆっくり吐き、短く言った。
「……ありがとう」
「……うん……」
ミラの啜り泣きはすぐには止まらなかった。
ダリウスは返事を急がない。呼吸の合間に「大丈夫だ」と小さく言い、黙る。言い過ぎない。声を切らさない。
やがてミラの呼吸が整い、寝息へ変わっていく。
ダリウスはそれを聞いて、目を閉じた。指の力が抜け、毛布が戻る。
水滴の音が一定になり、洞窟の匂いが薄くなる気がした。
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