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風宮 むぅまろ🦇🍀︎ 🍬🍚
#海辺の町
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その日の閉館後、厨房の隅では妙にひそやかな空気が流れていた。大鍋は洗い終わり、パンの香りも薄れ、換気扇の低い音だけが残っている。そんな時間に、ダービーが帳面を抱えて現れた。
「今なら人がいない」
彼はいつものきっちりした声を少しだけ落とし、作業台の上へ書類を広げた。そこへ経理補佐のグラツィエラもやって来る。几帳面な彼女が眉を寄せている時は、たいてい面倒なことが起きている。
「買収見積りの数字、合わないの」
グラツィエラが示した欄には、修繕費、備品管理費、運搬費といった項目が並んでいた。ディアビレには全部は分からない。けれど、二重線と付箋の多さだけで異常だと分かる。
「この月だけ、倉庫整理の名目で金額が跳ねてる」とダービーが言う。「しかも現場記録がない」
「帳票の写しも一部抜けてるわ」とグラツィエラが続けた。「消えているのは、古い権利関係に触れそうな周辺ばかり」
ディアビレはフィルムのことを思い出した。消えた写真。残された一行。誰かは隠し、誰かは残そうとしている。
「つまり、誰かが見られたくないものがあるんですね」
「そういうこと」とダービー。「たぶん保管庫」
その単語が出た瞬間、厨房の入口に立つ影へ全員の視線が向いた。
ジナウタスだった。夜勤の紺の上着のまま、まるで最初から聞いていたみたいな顔をしている。
「保管庫を見れば分かる」
「簡単に言うなよ」とダービーが肩をすくめる。「鍵はセルマが握ってる」
「鍵だけじゃない」とグラツィエラ。「中身を出し入れした形跡まで消してる」
ジナウタスは作業台の書類へ目を落とし、それから低く言った。
「だったら、消された順番を逆から辿る」
何気ない声なのに、そこだけ妙に確信があった。ディアビレは思わず彼を見る。彼は気づいたように視線を合わせ、ほんの少し顎を引いた。
――焦るな。まだ追える。
口にしていないのに、そう言われた気がした。
その時、換気扇の音に混ざって、遠い廊下で何かがきしむ音がした。誰かがまだ起きている。あるいは、こちらの話を聞いていたのかもしれない。
ダービーが書類を素早くまとめる。
「今夜はここまで。続きは、もっと安全な場所で」
安全な場所など、このホテルに本当にあるのだろうか。
ディアビレは胸の内でそう思いながら、ふと作業台の端に置いたフィルムケースへ触れた。冷たい筒の奥で、まだ見ぬ真実がじっと息を潜めている気がした。