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#海辺の町
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港へ続く坂道に、見慣れない長身の男が立っていた。潮風にコートの裾を揺らし、首から古い型のカメラを提げている。午後の光を背にしているのに、その顔だけは妙にはっきり分かった。
「……ディアビレ?」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥の古い引き出しが勝手に開いた。オラシオだった。昔、この町を出ていったまま戻らなかった、実らなかった初恋そのものの顔。
「久しぶり」
それだけ言うのに、思ったより時間がかかった。オラシオは照れたように笑い、港の方を親指で示す。
「ルーチェ港の特集を頼まれてね。海辺のホテルと、隣の喫茶室。どっちもまだ残ってるって聞いて、見に来た」
昔より声が落ち着いている。服も、立ち方も、町を飛び出した人間の空気をまとっていた。
「喫茶室も、知ってるの?」
「もちろん。君のお母さんのココア、好きだったから」
それを言われると弱い。ディアビレは曖昧に笑って、エプロンの端を無意識に握った。
その時、ホテルの搬入口からジナウタスが出てきた。台車を押していた手が、ほんのわずかに止まる。
オラシオは初対面らしい会釈をした。「取材で少し世話になるかもしれません」
「夜勤責任者だ」とジナウタスは短く返す。
たったそれだけのやり取りなのに、間に見えないものが一枚差し込まれた気がした。海風が強く吹き、オラシオのカメラの金具が小さく鳴る。
「あとで、喫茶室にも寄っていい?」
そう聞かれて、ディアビレは頷いた。頷いたはずなのに、心は少しだけ落ち着かなかった。
帰り際、ジナウタスが荷台を押しながら低く言う。
「昔の男か」
「昔の、ってほどでもないです」
「その言い方は、だいたいそうだろ」
声はいつも通りなのに、どこかだけ曇っていた。