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放課後の相談室には、机を拭いたばかりの洗剤の匂いがうっすら残っていた。
日下部は窓を少しだけ開け、風が入ってくる音に耳を澄ませていた。
扉が小さくノックされる。
「……入っていい?」
「うん。どうぞ」
入ってきたのは、視線の置き場を失ったような男子だった。
制服の胸ポケットをいじりながら、落ち着かない足取りで椅子に座る。
日下部は急かさない。ただ、そこにいる。
「……あのさ。俺、最近きつくて」
声は小さいが、苦しさが滲んでいた。
「元友達、いるんだよ。
理由とかよく分かんないまま距離置かれて……
今じゃすれ違っても、あっち見向きもしない」
男子は机に視線を落とし、爪の先で木目をゆっくりなぞった。
「教室で目が合いそうになると、向こうが先にどっか行く。
で、俺は……“なんで嫌われたんだろ”って、まだ考えてんだよね。
もう友達じゃないのに、ずっと頭から離れない」
日下部は軽く頷く。その目は静かで、逃げ道を塞がない。
「……忘れたいのに、忘れられないんだよ。
すれ違うだけで心がざわついて、手が冷たくなる。
でも、話しかける勇気もない。
なんか……自分だけ置いてかれてる感じ」
言葉を吐き出すたび、肩が少しずつ落ちていく。
しばらくの沈黙を置いて、日下部が口を開いた。
「理由ってさ、相手が説明してくれない限り、分からないことのほうが多い」
男子は顔を上げる。
「でも……知りたいんだよ」
「分かる。
嫌われた理由が分かれば、自分を責める場所が決まるからな。
“ここが悪かったんだ”って思えたほうが、まだ楽なんだよ」
その言葉に、男子の表情が崩れた。
図星を刺されたのに、責められた感じはしない。
「……そうなんだよ。
自分が悪いって思ったほうが、納得できるから」
「でもな」
日下部は肘を机に置き、真っ直ぐに視線を向けた。
「相手が去った理由が“お前のせいじゃない”場合も、普通にある」
男子は瞬きを止めたまま、ぼんやり日下部を見る。
「人ってさ、環境変わったり、他の人と仲良くなったり、
自分のことでいっぱいいっぱいになったり……
いろんな理由で距離が変わる。
それが全部“お前の欠点”ってわけじゃない」
「でも、向こうから離れたのは事実で……」
「事実だけど、“責任”は別だよ」
その静かな言葉は、男子の胸の奥にゆっくり沈んでいく。
「すれ違うたびにざわつくのは、まだ大事だった証拠だよ」
日下部は続ける。
「大事にしてた関係は、急にゼロにはできない。
忘れなくていいし、無理に整理しなくてもいい。
ただ……“自分を全部悪者にする癖”だけは、少しずつ手放してもいい」
男子は深く息を吸い、こぼれた前髪を指で払った。
「……すれ違っただけで心揺れるの、普通?」
「普通だよ」
日下部は迷わず言った。
「むしろ揺れないほうが、不自然」
男子の目がわずかに緩む。
すぐに笑えるほど軽くはならないけれど、張りつめていたものが少しほどける。
「……ここ来てよかったかも」
「それなら良かった」
日下部は柔らかく笑った。
「またざわついたら、いつでも来いよ。
理由なんかなくても、話したくなくても、座りに来るだけでいいから」
男子は立ち上がり、少しだけ楽になった顔でうなずいた。
扉が閉まったあと、相談室には風の音だけが残った。
揺れる心の余白をそっと受け止めるように。