テラーノベル
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放課後。
いつもより早く日は落ちて、相談室の窓には灰色の空が張りついていた。
日下部は机にノートを広げていたが、扉のノック音に顔を上げた。
「……失礼します」
入ってきたのは、静かな目をした生徒だった。
どこか疲れたように、けれどきちんと礼をしてから椅子に腰を下ろす。
「最近、泣けなくなったんです」
いきなりの言葉に、日下部の手が止まった。
「泣けなくなった?」
「小さい頃は、映画とかで普通に泣いてたのに。
今は、どんなに悲しいことがあっても、涙が出ない。
泣けた方が楽になれる気がするのに、体が動かないんです」
生徒はそう言って、笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
日下部は、ペンを机に置いて言った。
「泣くのって、たぶん“余裕”がないとできないんだと思う」
「余裕、ですか」
「うん。
本当に限界のときって、涙って出ない。
もう、泣くよりも“耐える”方に力を使っちゃうんだよ」
生徒は目を伏せ、机の木目を指でなぞる。
日下部は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「俺も、一時期そうだった。
何かを感じても、全部どこか遠くにあるみたいで。
“悲しい”って思うことさえ、どこか他人事みたいでさ」
外の風が、窓ガラスを震わせた。
その音の中で、日下部は静かに続けた。
「でも、それって心が壊れたんじゃなくて、“守ってる”んだと思う。
傷つかないように、感じすぎないように、無意識に自分を守ってる」
生徒が、かすかに息をのんだ。
「だから泣けないのは、“弱い”とか“冷たい”とかじゃない。
むしろ、それだけの痛みを抱えてる証拠だと思う」
沈黙。
時計の針の音だけが、ゆっくりと響く。
「……泣けるようになる日は、来ますかね」
その問いに、日下部は少しだけ笑った。
「多分、来るよ。
どうしようもなく優しい言葉とか、
ほんの些細なことで、突然泣ける日が来る。
それは、“もう大丈夫”って心が言えるくらい、回復したときだ」
生徒は黙って頷いた。
その目の奥で、少しだけ何かがゆるんだように見えた。
「……泣けなくても、今はそれでいい。
泣けないままでも、ちゃんと生きてるからな」
日下部はそう言って、柔らかく笑った。
窓の外では、夕陽の色が少しだけ戻り始めていた。
――涙が出ない夜にも、確かに心は、まだ生きている。