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「ありがとうございます」
颯爽とフロアへ向かう燎子の背中は自信に満ち溢れているように感じた。
秘書課の人が、商品企画課に用事でくることなどほぼない。内線を使えば済むことなのに。これはきっと当てつけだ。
私が一体何をしたというのだろう。
むしろわかりやすく、意地悪されたり、悪口を言われるほうがよっぽどかマシなようにも思う。
復讐なんて本当にできるのかな。側から見れば、私たちのことはただの男女の恋愛のもつれにすぎない。
彼氏が心変わりして、他の人と付き合った。ただそれだけのことだ。
過去のことまで知る人は|社内《ここ》にはいないし、そういうこともあるよね、で終わりだ。
なんだかこれ以上関わりたくないような気さえして、足早にトイレに向かった。
ざっと手を洗って気分を整え、フロアに戻る。斜め前のデスクにいる元カレ。
その横でパソコンの画面を覗き込む燎子の姿が嫌でも目に入った。
「わざわざありがとう」
「いえ、お急ぎだと思ったので。お役に立てて嬉しいです」
にこにこ見つめ合うふたりは、なんとも幸せそうだ。その笑顔は、ほんの少し前は私に向けられていたのに。
そう思っても仕方ない。
姿勢を正して続きの仕事をはじめると、「失礼しました」と彼女は告げてフロアを出て行った。
年度末に向けて、仕事が立て込んでいる。なんとか気分を切り替えて仕事を進め、必死にこなしているうちに時間が過ぎて終業になる。
女性社員も積極的に雇用しているので、社内は残業をする雰囲気ではない。
それでもできる人は残業をして仕事をまわさないといけないのが現状だ。
やれるひとがやっていけばいいと思うけれど、独身組からは不公平だという意見を聞くこともある。
子育て世代を応援し、お互いを慮っていくことが必要であるのは理解できるし、私だって当事者になればそうしたいと思う。
正直ちょっと疲れた。
このまま結婚して時短勤務をしながらゆっくり子育てを楽しみたい。
そんな思いもほんの少しあったけれど、今はそれどころではない。
終業とともに多くの人が帰っていき、フロアがだんだん静かになっていく。
もう少しやっていこう。そう思ったところで背中の方で元気な声が聞こえた。「花音! きょうご飯食べに行かない? 新しくできたイタリアン」
声をかけてきたのは|黒川《くろかわ》|彩月《さつき》。
同期入社で、新人研修以来の友人だ。
「あー、でもこの資料作っておきたくて」
「どれどれ? えー、これまだ先のことでしょ? 残業しなくてもいいじゃん」
「もう、|彩月《さつき》は仕事早いから……」
私が何か言っても、いいから行こうと畳みかけてくる。
彩月は監査部のアイドル、かわいらしい見た目で社内の男性にひっきりなしに声をかけられている。
顔に反して仕事では男勝りで、中身を知った男性には引かれることもあるらしい。
当の本人は、会社の男性にはまったく興味がなく、片思いしている相手になかなか思いを告げられないでもがいていた。
「イタリアンのお店はどこにあるの?」
「大須の方。ここから歩いて5分くらいだよ」
彩月の勢いに押されて、しぶしぶと帰り支度をする。
永井くんはまだ営業から戻ってきていないようだった。直帰も多い会社だから、戻らないのかもしれない。