テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
それから、一ヶ月が過ぎた。
この日、国雄と紫野は高瀬にある八木家を訪れていた。幸子が無事出産を終えたので、二人でお祝いに駆け付けたのだ。
幸子の子供は男の子で、名前は健太(けんた)と名付けられていた。
「初めまして、健太君! まあ、なんて可愛いの!」
紫野は赤ちゃんを抱かせてもらい、その天使のような顔を見て思わず声を上げた。
「紫野ちゃんたら、うちの息子にすっかり夢中じゃない!」
「だって、本当に可愛いんですもの」
健太を嬉しそうに見つめる紫野の表情を見て、幸子は隣にいる夫に微笑みかけた。
この日は、幸子の夫・健一(けんいち)も八木の家に来ていた。
名残惜し気に赤ちゃんを返した紫野は、持参した袋から包みを取り出し幸子に渡した。
「私が作った物なんだけど、健太君に使ってもらえたら嬉しいわ」
「紫野ちゃんが作ってくれたの? ありがとう!」
幸子は歓喜の声を上げながら包みを開ける。中にはベージュの毛糸で編まれた可愛らしいケープと、揃いの帽子が入っていた。
「 わぁ! 素敵! 紫野ちゃん、ありがとう!」
「今年の冬は寒いから、少しでも暖かくなればと思って……」
「すごく助かる! それに、とっても可愛らしいわ! ねぇ、見て、あなた!」
幸子は満面の笑みで、夫にケープを見せた。すると、夫の健一も笑顔で紫野に感謝の言葉を伝えた。
「本当にありがとうございます」
そこで、今度は国雄が百貨店の包装紙に包まれた箱を二人に差し出した。
「これは僕からのお祝いです。東京出張の時に見つけた物ですが、気に入っていただけるかどうか……」
「まあ、ありがとうございます!」
「わざわざ、すみません」
幸子と健一は微笑みながら、二人で包みを開けてみる。そこには、子供用サイズの可愛らしい漆器のセットが入っていた。
「まあ、素敵だわ!」
「本当だね。東京には、こんな洒落た器があるんですね。健太もきっと喜びますよ、ありがとう!」
二人は、国雄と紫野からの心温まる贈り物に深く感謝した。
その後、四人はしばらく談笑した後、日が暮れる前に国雄と紫野は八木家を後にした。
産後の幸子には心配はかけたくなかったので、紫野は東京での出来事は一切話さなかった。
車に乗る前、国雄が紫野に尋ねた。
「少し棚田を歩いてから帰ろうか?」
「はい!」
紫野は嬉しそうに返事をし、国雄の後について棚田へ向かった。
二人は、初めて出会った思い出の場所まで行くと足を止めた。そこから見える風景は当時と変わらず、紫野は懐かしそうに辺りを見回す。
目の前には大きな山がそびえ、山の麓には村上セメントの工場の明かりが見えていた。
「あの頃と、まったく変わらないね」
「そうですね。でも、蛙さんだけは冬眠中ですけど……」
紫野のユーモアあふれる言葉に、国雄がクスッと笑った。
「確かに! でも、今おたまじゃくしがいたら、また紫野が泥だらけになるからなぁ……冬眠中でよかったよ」
「まぁ、ひどい! 私、今はそんなにお転婆じゃありません!」
頬を膨らませて反論する紫野を見て、国雄は楽しそうに笑っていたが、やがて真面目な表情へと変わる。
その真剣な眼差しに気付いた紫野は、心臓が高鳴るのを抑えきれなかった。
「紫野……ここで、もう一度君に、結婚を申し込んでもいいかい?」
国雄の真剣な声に一瞬息をのんだ紫野は、なんとか返事を返した。
「……はい」
その瞬間、国雄は紫野の手を取ると、彼女の瞳を見つめながらはっきりと言った。
「紫野! 僕の妻になってくれませんか?」
「はい……よろしくお願いします」
「ありがとう! 必ず幸せにするから」
紫野は恥ずかしそうにコクンと頷いた。
すると、国雄はポケットから小さな箱を取り出し、紫野の手のひらの上に置いた。
「?」
「正式な婚約指輪だよ。東京で選んできた」
「まあ!」
「開けてごらん」
紫野が箱の蓋を開けると、そこには見事なダイヤモンドの指輪が輝いていた。
今までに見たことがないほど大きく、美しい輝きを放つ宝石に、紫野の目は釘付けになる。
「素敵!」
「気に入ってくれた?」
「もちろんです!」
「よかった……」
国雄はリングを箱から取り出すと、紫野の薬指にそっとはめた。
アメシストのリングと重ねられたダイヤの指輪は、夕日に反射してキラキラと輝いている。
「とっても綺麗! ありがとうございます!」
紫野は、嬉しさのあまり国雄に笑顔を向けた。その笑顔を、国雄はじっと見つめ返す。
次の瞬間、国雄が紫野に唇を重ねた。二人にとって初めてのキスだった。
長いキスが続く間、突然、空が真っ赤に染まり始める。
それに気付いた国雄は、唇を離しながら紫野に囁いた。
「あの日と同じ空の色だね」
「はい。茜色の空……私はこの棚田から見る夕焼けが大好きなんです」
「僕もだよ」
二人は夕焼けを見つめながら、しばしその神秘的な光景に心を奪われる。
そして、再び静かに唇を重ねた。
それは、今まさに、あの時と同じ場所、同じ光景の中で、紫野の初恋が見事に実を結んだ瞬間でもあった。
その日、家に帰った二人は、夕食前に国雄の両親に呼び出された。
「父さん、急に改まって、どうしたんですか?」
国雄の問いに、父・貞雄は神妙な面持ちでこう切り出した。
「まあ、そこへ座りなさい」
「はい」
「失礼いたします」
紫野が国雄の隣に腰を下ろすと、貞雄が言葉を慎重に選びながら言った。
「実は紫野さんに確認しておきたいことがあってね」
「はい。何でしょうか?」
「大瀬崎蘭子の件についてなんだが、本当に起訴しなくてもいいのか?」
貞雄の言葉を受け、紫野の胸にはこれまでの出来事が次々と思い起こされた。
蘭子は、逮捕されたあの日から罪の重さを認識し、反省の日々を送っていると警察から聞いていた。
もし、紫野が起訴に踏み切れば、蘭子は裁判で有罪判決を受け、刑務所送りとなる運命が待っている。しかし、これ以上彼女を責めても、亡き両親が戻って来るわけではない。
紫野は、その事実を踏まえ悩み抜いた末、最終的に起訴しないという選択をした。
蘭子の罪を許したわけではないが、彼女にはこの先まだ長い人生がある。だから、罪を悔い、心を入れ替えてまっとうな人生を歩んでほしい。紫野は、ただそう願っていた。
「はい。起訴はいたしません。彼女は重々反省しているようですし、これ以上はもう……」
「そうか。それなら、弁護士にはそう伝えておくよ」
「よろしくお願いいたします。何から何までお世話になり、本当にありがとうございます」
そこで、貞雄は微笑みながら言った。
「紫野さんは、もううちの嫁みたいなものだから、当然のことをしたまでだよ」
「そうよ、紫野さん! 私たちはもう家族同然なの。だから、遠慮なく頼ってちょうだい」
国雄の両親の温かい言葉に、紫野は嬉しさのあまり目頭が熱くなる。
「ありがとうございます」
「ああ、それとね、あなたたちの結婚の準備、そろそろ始めた方がいいんじゃないかしら?」
「ははっ、どうも美津が待ちきれないようでね……祝言は春あたりでどうだ?」
「私たちもその頃がいいんじゃないかと話していたところです」
「まあ、それは良かったわ! じゃあ、これから準備に入るわね!」
国雄は、母親の美津に向かって優しい眼差しで言った。
「母さん、紫野のことを頼みます」
「任せてちょうだい! あ、それと、もう娘同然なんだから、今日から『紫野』と呼ばせてもらうわね。いいかしら?」
「はい、奥様」
「ああ、だめだめ! 『奥様』じゃなくて『お母様』って呼んでちょうだい」
すると、急に貞雄が口を挟んだ。
「おいおい、お前だけずるいぞ。だったら、わしも『お父様』と呼んでもらわないと! ほれ、紫野、呼んでみてくれ」
「お……お父様!」
その響きに満足した貞雄は、微笑みながら言った。
「うん、いい響きだ。娘が嫁に行って淋しい思いをしていたのに、また新たな娘ができるなんてな……こんなありがたいことはない」
「あら、あなただけ、ずるい! 紫野! 私のことも呼んでちょうだい!」
「はい。お……お母様!」
「まぁ~、嬉しい~! なんだかしっくりくるわ!」
両親のあまりのはしゃぎように、国雄が呆れたように口を挟んだ。
「二人とも、いい加減にしてください。紫野が困っていますよ」
「あらあ、いいじゃないの~」
「そうだぞ! こんなにめでたいことはないんだからなぁ」
紫野は、三人のやりとりを聞きながら、思わずクスクスと笑い出した。
その日、村上家の応接室では、楽し気な笑い声がいつまでも響き渡っていた。
コメント
19件
親を奪われて、会社も奪われて、使用人のように扱われて、年寄りのガマガエルの元に嫁がされても、刑務所送りを避けさせてあげた紫野ちゃんの広くてきれいな心💕國雄さんや村上家の皆さんに愛されることにも感謝を忘れない紫野ちゃん、もっともっと幸せになる姿を見届けたいです💕
いつまでも心優しくピュアな気持ちの紫野ちゃんの国雄さんののプロポーズが思い出の棚田の茜色の空の下なんてほのぼのでキュンキュン🫰💖ですね☺️🌷🌸 蘭子の件も起訴せず反省を促す思いやりのある判断には世間の厳しさを思い知らせるのも必要では?と思いましたが、紫野ちゃんの気持ちを信じます✨✨ そして村上家ご一同は紫野ちゃんを既に娘扱いで、お父様、お母様呼びに大喜びな情景が瞼に浮かびます😊❣️💖🙌
この紳士め〰️国ちゃん素敵💓 ご両親も可愛らしいよ 紫野ちゃんこれから益々幸せがくるよ