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朝のギルドは、いつも騒がしい。
重たい扉が開くたび、
外の空気と一緒に声が流れ込んでくる。
金属の擦れる音。
革袋のぶつかる音。
床を踏み鳴らす靴音。
掲示板の前には、
すでに人だかりができていた。
「まだ貼り替わってねえぞ」
「昨日の依頼、残ってるじゃねえか」
「おい、これ三日も前のだぞ」
「……だから言っただろ。
このギルド、仕事遅ぇって」
「遅ぇんじゃねえ。
動かねえんだ」
誰かが鼻で笑った。
紙を引き剥がす音。
別の紙を貼り直す音。
そのたびに、誰かの舌打ちが混じる。
ここは冒険者ギルドだ。
仕事を探し、命を賭け、金を稼ぐ場所。
――本来なら。
「……で、マスターは?」
「今日も不在。
いつも通りだな」
「また部屋から出てこねえのか」
「朝だぞ、もう」
「どうせ寝てんだろ」
「寝てるだけで金もらえるって、いい身分だよな」
誰かが、何気なく言った。
その一言で、空気が一瞬だけ変わる。
視線が、自然と奥の席へ向く。
ギルドマスターが座るはずの場所。
分厚い木の椅子。
傷だらけの机。
正面には、誰もいない。
今日もだ。
鼻で笑う声がした。
「なにも倒せないギルドマスターもいるんだな」
「剣も振らねえ、魔法も使わねえ」
「一度も働いてるとこ、見たことないよな」
「俺らが倒してやってるから、
このギルドもあるってもんだ」
「他のギルドなら、
マスター自ら前に出るぞ」
「ここは変だよ。
変すぎる」
「だから“変わり者ギルド”なんだろ」
「はは、言えてる」
笑いが起きる。
軽い、乾いた笑いだ。
「そうだよな」
同意の声が重なる。
「他のギルドは、全然違うぞ」
「筋が通らねえよな」
誰も、小声にはならなかった。
聞こえてもいい、という前提で話している。
――いや。
聞こえないと、分かっているからだ。
「どうせ影みたいに引きこもってんだろ」
「影、な」
誰かがその言葉を使った瞬間、
足元の影が、わずかに揺れた。
気づいた者はいない。
ギルドの朝は、今日も騒がしい。
働かないギルドマスターの席だけが、
不自然なほど、静かなままだった。
その騒がしさは、
受付カウンターの手前で、少しだけ薄まる。
受付カウンターの内側は、
外より少しだけ静かだ。
声は聞こえる。
怒鳴り声も、笑い声も、愚痴も。
依頼を探す冒険者たちは、
カウンターの向こう側に立っている。
けれど、
ここには直接届かない。
エリスは、黙って書類を揃えていた。
依頼書。
報酬額。
期限。
危険度。
指先で紙を揃え、角を合わせる。
この作業は、毎朝変わらない。
「おい、まだ決まらないのか?」
カウンター越しに、冒険者が身を乗り出す。
「三日待たされてるんだぞ」
「他のギルドなら、もう終わってる」
エリスは顔を上げない。
「確認中です」
それだけ言って、視線を紙に戻す。
「確認? 何をだよ」
「討伐だぞ。いつもの仕事だろ」
“いつも通り”。
その言葉に、エリスは小さく息を吐いた。
いつも通りなら、
この依頼は昨日のうちに受理されている。
報酬は高い。
内容も単純だ。
――森の奥に出没する魔物の討伐。
それでも、書類はここにある。
エリスは一枚、依頼書を持ち上げた。
裏面。
過去の記録。
失敗。
撤退。
連絡途絶。
赤い印が、三つ。
「……却下です」
静かな声だった。
冒険者が眉をひそめる。
「は?」
「なんでだよ」
「マスターの判断です」
それ以上は言わない。
理由を聞かれても、答えない。
それが、このギルドのやり方だ。
「またかよ」
「顔も出さねえくせに」
文句は、もう慣れている。
エリスは、別の書類に手を伸ばす。
同じ森。
同じ依頼人。
同じような内容。
それも、却下。
「……なあ」
少し声の低い冒険者が、囁くように言った。
「本当はさ、
あのマスター、
何か見えてるんじゃないのか?」
エリスの手が、ほんの一瞬止まる。
けれど、顔は上げない。
「次の方、どうぞ」
それだけ言って、鈴を鳴らした。
カウンターの外が、また騒がしくなる。
エリスは書類を揃えながら、
奥の扉を一度だけ見た。
閉じられたままの、ギルドマスターの部屋。
――今日も、出てこない。
それでも、
依頼は減らされ、
死者は出ていない。
それが、
このギルドの答えだった。
ギルドに併設された酒場は、
昼間から賑やかだった。
木のテーブル。
擦り切れた椅子。
昼酒をあおる冒険者たちの笑い声が、
天井の低い空間に満ちている。
「なあ、聞いたか?」
隣国訛りのある冒険者が、
杯を置いた。
「このギルド、結構噂になってるんだぜ」
周囲の視線が、
自然とそちらへ向く。
「噂?」
「変わり者のギルドって言ったら、
ここだってすぐ分かる」
「変わり者?」
男は、肩をすくめて笑った。
「マスターは出てこねえ。
依頼は却下ばっか。
なのに、死人が出ねえ」
「それ、褒めてんのか?」
「褒めてる」
即答だった。
「隣じゃな、
“仕事は減るが、
帰りは必ず生きてる”
って言われてる」
「都合良すぎだろ」
「だろ?
だから気味悪がられてんだ」
乾いた笑いが、
いくつか重なる。
酒場の喧騒は、
また別の話題へと流れていった。
「……変なの持ち込まれた」
鍛冶屋の親父が、酒をあおる。
「変な?」
「魔石だ」
空気が、少し変わる。
「ただの魔石じゃねえ」
「吸うんだよ。
周りの魔力を」
「は?」
「使ってねえのに、
使った後みてえになる」
「そんな石、聞いたことねえぞ」
「だから断った」
親父は吐き捨てる。
「だがよ……
あれを使いたいから、
“耐える刀”を作れってよ」
「無茶だな」
「……目がな」
親父は、酒場の奥を一瞬見る。
「もう、
何かを使い切った目だった」
そのざわめきから、
少しだけ距離を取るように。
酒場の端の席で、
一人、静かに杯を傾けている男がいた。
フードを深くかぶり、
光の当たり方を避けるように座っている。
顔は、よく見えない。
周囲の笑い声を、
聞いているのかいないのか。
男は、酒を一口飲み、
小さく呟いた。
「今日も平和だな」
その足元で、影がわずかに伸びる。
どこか、疲れたような動きだった。
――少し前。
街道の外れ。
森の境界。
本来なら、
“依頼書”になるはずだった異変は、
すでに処理されている。
倒された痕跡。
引きずられた影。
血の匂いは、残っていない。
男は、それを確認してから、
何事もなかった顔で街へ戻った。
帰り道。
露店が並ぶ通りで、
足を止める。
「……これ、か」
色とりどりで、
ふわふわした菓子。
甘い匂いがして、
見た目だけで幸せになれそうなやつだ。
男は一つ買い、
それを手にギルドへ戻る。
酒場を抜け、
奥のカウンターへ向かう。
受付には、エリスがいた。
今日も書類の山に囲まれて、
忙しそうに手を動かしている。
「いつも、大変だね」
声は低く、穏やかだった。
エリスは一瞬、動きを止める。
顔を上げると、
少しだけ、むすっとした表情。
「……今、忙しいです」
素っ気ない。
男は気にせず、
包みを差し出した。
「はい、これ……好きだろ」
カラフルで、ふわふわのスイーツ。
エリスは一度だけ、それを見る。
視線を逸らしてから、
小さく息を吐いた。
「……後で、いただきます」
ぶっきらぼうだが、
包みは、きちんと受け取る。
その足元で、影が揺れた。
エリスの視線が、
一瞬だけ、そこへ落ちる。
「……頑張ったのね」
囁くような声。
影が、ゆっくり頷いた――
ように、見えた。
男はそれを見て、
楽しそうに笑った。
「お疲れさま」
誰にも聞こえない声で。
ギルドマスターは、
今日も顔を見せない。
けれど、
影だけは、確かにここにいた。
その影が通り過ぎたあと、
受付カウンターには、
変わらない朝の仕事が残る。
依頼書は、
一見すると、どれも同じに見える。
魔物討伐。
出没地点。
報酬額。
期限。
エリスは、書類の山の中から
一枚だけ、そっと抜き取った。
紙の色が、少しだけ違う。
何度も触られたせいで、
角が柔らかくなっている。
――この依頼だ。
森の奥。
街道から外れた場所。
内容は、単純だった。
「最近、魔物が出るようになった。
討伐してほしい」
それだけ。
危険度は、中。
報酬は、相場より少し高い。
冒険者なら、
誰でも受けたがる条件だ。
だから、
何度も提出されている。
エリスは、裏面を確認する。
記録欄。
一行目。
受注。
二行目。
途中撤退。
三行目。
連絡途絶。
その下にも、
同じ依頼番号。
日付だけが違う。
受注。
撤退。
連絡途絶。
赤い印が、
増えていく。
三つ。
四つ。
五つ。
失敗理由は、書かれていない。
書けないのだ。
戻ってきた者が、
ほとんどいないから。
「……また、これか」
カウンターの向こうで、
冒険者が舌打ちする。
「この森、呪われてんじゃねえの」
「なのに、なんで却下なんだよ」
エリスは、顔を上げない。
却下の理由は、
知っている。
でも、
説明する義務はない。
依頼書を、元の位置に戻す。
同じ森。
同じ依頼人。
名前は、毎回違う。
けれど、
筆跡が似ている。
微妙に、だが、
確実に。
「……おかしい」
小さく、そう呟いた。
討伐されていないのに、
魔物の数は増えない。
それどころか、
街道の被害は減っている。
誰かが、
依頼になる前に処理している。
でも、
それは記録に残らない。
ギルドは、
“依頼を受けて”動く場所だから。
エリスの指先が止まる。
その瞬間、
カウンターの下で、影が動いた。
ほんの一瞬。
紙の影と、重なるように。
エリスは、
何も言わずに書類を閉じる。
却下。
その二文字を、
淡々と記入する。
今日も、
依頼は減った。
代わりに、
誰も知らない場所で、
誰も数えない命が、
確かに、守られている。
ギルドの昼は、
いつの間にか、夕方へ向かっていた。
受付カウンターの影が、
少しずつ長くなる。
エリスは最後の書類を棚に戻し、
軽く息を吐いた。
「……今日は、これで終わりですね」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、
足元の影が、わずかに動いた。
それは、
照明の変化ではなかった。
影が、
意志を持つように、形を変えたのだ。
エリスは、それを見下ろす。
驚きはない。
恐怖もない。
ただ、
ほんの少しだけ、目を細める。
「……ずいぶん、疲れてる」
影は、返事をしない。
けれど、
動きが鈍い。
まるで、
何か重たいものを引きずってきた後のようだ。
エリスは、そっと膝をつく。
声を落として、言う。
「無理、しすぎ」
影が、
かすかに揺れる。
肯定とも、否定ともつかない。
「……でも」
エリスは立ち上がり、
カウンター越しに外を見る。
この街の人たちは、
今日も何事もなく過ごしている。
冒険者たちは、
命を落とすことなく生きている。
不満を言い、
文句を言い、
笑いながら酒場へ向かっていく。
「今日も、誰も死んでない」
それだけで、
十分だった。
影は、
ゆっくりと、
エリスの足元から離れていく。
まるで、
またどこかへ行く準備をするように。
「……帰ってきなさい」
小さな声。
命令ではない。
願いに近い。
影は、
一度だけ、
大きく揺れた。
そして、
床の模様に溶け込む。
何事もなかったかのように。
エリスは、
影が消えた床を、しばらく見つめてから、
帳簿を閉じた。
今日も、
依頼は減った。
今日も、
報告書は増えない。
――それでも。
鍛冶屋の親父が見た“目”だけは、
この街のどこかで、
まだ閉じられていなかった。