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さあ、と、芳子から差し出された菓子は、月子にとって初めて見るものだった。
三角形に切られたカステラに羊羮が挟まれている代物は、高級菓子にしか見えず、月子は本当に食べて良いのかと躊躇した。
一方、二代目も中村も、嬉しそうに、男爵夫婦の差し入れ、シベリアに飛び付いている。
「いや、このね、羊羮の甘さがなんとも言えないわけでして」
二代目は、甘いものに目がないのか、嬉しそうに頬張りつつ、喉が乾いたなどと、調子に乗っている。
「あ!申し訳ありません!お茶の準備もせずに!」
月子は、慌てて立ち上がるが、瞬間、挫いた足首が痛み、顔を歪めた。
「まだ、無理をしない方がいい。座っていなさい」
岩崎が、月子へ言うと、立ち上がる。
どうやら、茶を入れるようなのだが、月子にとっては、それが、落ち着かない。
「あ、あの!お台所の事を覚えたいので!」
「いや、まあ、そうだが……痛むのだろ?」
岩崎は、月子の言い分を通そうとはしなかった。
「はい!お咲がします!お咲は女中だから、ひつじさんが、手伝いなさいと言ったから!」
今度は、お咲が立ち上がった。
「……羊?お咲ちゃん、カエルだけじゃなくて、羊とも友達だったの?」
お家では、羊も飼っていたのかしら?と、芳子が、不思議そうにしている。
「……お咲は、よろしい。面倒なことになる。……じゃあ、月子、君だけ、来なさい」
お咲では、茶を入れるだけの事でも無理だろうと、岩崎の顔には書かれてある。
そして、月子を邪険に扱ったと芳子に噛みつかれる事も、予想しているようだった。
「ゆっくりでいい。ついて来なさい」
言う、岩崎に、月子は頷き、お咲は、少し不満そうに頬を膨らませた。
「おやおや、女中さんはご機嫌斜めだな。中村君、バイオリンを弾いてくれないかね?お咲には、音楽が一番効果があるようだからね」
シベリアを頬張っていた中村は、慌てて、居ずまいを正すと、何故か、男爵へ頭を下げた。
「岩崎男爵!ぜひ、私の演奏を聞いてください!」
突然の変わり身というべきものに、皆、唖然としたが、男爵と岩崎は、心当たりがあるのか、冷めた目付きで、頭を下げている中村を見た。
「中村君。……紹介状だね?」
「中村、どこへ勤めたいと思っているのだ?」
続けて岩崎が尋ねた。
「東郷客船に……。日米航路の楽団で演奏をしたいのです!」
自分は西洋の音楽を演奏している。だからこそ、一度は、その西洋で、本物の音楽に触れてみたいのだと、中村は、必死に男爵へ語りかけた。
「私の家では、岩崎、いえ、岩崎先生のように、欧州《ヨーロッパ》へ留学など無理なのです。下宿代と学費の援助も苦しいはずです。でも、夢を捨てたくはない。それに、アメリカでは、ジャズという新しい音楽が生まれています!西洋から、何か、学び取りたいのです!」
中村は、そこまで言うと、畳に擦り付けるよう、男爵へ頭を下げた。
「……なるほど。客船の楽団に入れば、アメリカと日本を行き来でき、アメリカの文化にも触れられるという訳か」
その頃、日本の海運業界では、数社が、アメリカへ旅客航路を運航しており、乗客向けに各々楽団を乗船させていた。
運航中は、夜な夜な音楽を聞かせ、ダンスパーティーでの伴奏を奏でと、活躍していたのだ。
楽団員には、中村のように、西洋に憧れる音楽学校の卒業生が数多くいた。
「うん、まずは、中村君。バイオリンを聞かせてくれ。君は、私と良く顔を合わせるほど、京介の家に遊びに来ている。つまり、それなりの腕があるのだろう?」
はい、と、中村は、大きく返事をして、立ち上がる。
「……さあ、台所へ行くぞ」
「あの、中村様のバイオリンを、旦那様は、聞かなくてよろしいのですか?」
話ぶりでは、中村の将来が、かかっているような気がするのだが、岩崎は、聞く耳もたずといった感じで、台所へ向かおうとしていた。
果たして、それで、いいのか?
月子の思いを読み取ったのか、岩崎は言う。
「中村は、私の生徒でもある。あいつの弾き癖は、誰よりも分かっているし、台所にも、音は流れて来る。ほら、二代目が茶を欲しがっているようだ……」
「え?」
月子が、その二代目を見てみると、うっと、唸りながら、胸元をトントン叩いていた。
「一度に頬張り過ぎるからだ。まあ、シベリアは、珍しいからなぁ。がっついて食べてしまうのも、分からなくはないが。取りあえず、酒で流し込んでおけ」
それだけ言うと、岩崎は、知らぬ存ぜぬと、居間を出て台所へ向かった。