ナツの言う通り、麓にまで降りてきた俺は確かにその生贄がいるのを見つけた。とても山に入るとは思えない恰好で、道なき道をひたすらに登る姿。何度も転んだのだろう、飾り気のない白い装束は既に泥に塗れており、顔まで汚れとすり傷があり痛々しい。
俺はその生贄をしばらく見ていた。ナツは山神のフリでもして近づけば簡単だと言っていたが、これから頼み事をするのに嘘はつきたくない。嘘には散々振り回された俺だから……。
「お前はこんなところで何をしているんだ?」
生贄の少女につい聞いてしまった。生贄が何をするも何もない。叶えたいことがあるのだろう。それを聞いておきたかったのだ。
「あなたは……山神様ですか?」
少女はそう聞いてくる。こんなところで出会えばそう思ってしまうのかも知れないが、俺は神ではない。
「そうではない。だがお前のことが気になって、な」
「おとなから聞いていた通りです。山神様はご自分のことを神とは仰られないと──。山神さま、街をお救い下さい。いま街は病に蝕まれております。街が救われるならこの命を貴方様に捧げますゆえ──」
想定外に勘違いさせてしまった。だが、これで聞きやすくなる。
「流行り病か? そのためにお前のような子どもが生贄にされる、と? 馬鹿馬鹿しい…死ぬなら老い先短い連中が死ねばいい。帰って伝えろ。神は子どもなど捧げられてもどうしようもない。魔力に溢れた年寄りでも連れて来いと」
俺の都合に巻き込むにしても年寄りならいくらか罪悪感も薄れるかも知れない。ここでは知り合いなど望めそうもないから赤の他人か動物にでもしたいところだが、こんな未来ある少女は気がひける。
「そんな──いえ、魔力なら、マイもたくさんあります! どうかこの命で、街を救ってくださいっ!」
これはどうやら上手くはいかないらしい。生贄も大変な役割なのだろう。なら今のところは諦めて街を救ってこの少女を返してやるか。
「その流行り病の特徴と、街の大きさ、ここからの距離を教えろ」
「──っ! はいっ!」
そうして聞き出した情報から、魔術を構築して山からの吹きおろしの風に乗せて運ばせた。そも話を聞く限り隣国との争いの中の魔術攻撃のようだった。それが分かれば対処は容易い。金色の風が街にまで届きその手応えを感じる。
「これで大丈夫だ。生贄の必要はない。お前も街に帰るが良いだろう」
一連の魔術を黙って見ていたマイは、真剣な顔で首を振り、
「街には、もうマイの居場所はないのです。いつか生贄にするために売られて育てられただけのマイにはあの座敷牢しかないのです。あそこに戻るのはいやなのです。誰もマイのことは受け入れてくれないのです。生贄にもなれないマイの居場所はもう座敷牢にもないかも知れないです。もうマイは、どこにも……なんで生贄にしてくれないのです? 食べて下さい。マイはもういいのです。食べて、ください。この通りです……」
マイは抑揚なくそんな事を口にしながら一枚だけ着せられていた装束を脱ぎ去り、その身を差し出すように平伏した。
「マイは、泥だらけですけど……怪我もしちゃいましたけど、生贄にするからって、ご飯は食べさせて貰っていたので、食べるところはあると思うのです。だから、マイは山神様に食べてもらいたいのです。生贄になれないとマイは生きてきた意味も生まれてきた意味も……これだけはやって来いと言われてきたので……山神様、食べて下さいです」
平伏したというより、ここで終わりだと、やっと終われるのだと、俺にはそう見えた。まるで生きていることが悪いことかのように。
折り畳まれた幼い身体のどこにも力はこもってなくて、それはただただそこで終わりの存在。
「マイは、マイはきっと美味しいですから。食べて食べ……て、くだしゃい、はやく……たべて……」
うわ言のように繰り返されるそれは次第に弱々しく、泣きそうになるのを堪えているようでもあった。