テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
20
17
第八湯 港町の湯
港町の湯は、海の匂いがした。
湯けむりの向こうから、
波の音が聞こえる。
ざぶん。
少し遅れて、
港の船がきしむ音。
磁馬は温泉街の入口で立ち止まった。
坂の下には港があり、
その先に広い海がある。
旅館の看板。
干された網。
魚を運ぶ人。
湯けむり。
食堂の暖簾。
全部が、潮風の中で少し揺れていた。
「いいなあ」
磁馬は肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
宿の玄関から、
茶色の作務衣を着た女性が出てきた。
「磁馬さんですね」
「うん」
「汐乃です。遠いところを」
「海が近い」
「はい。うちの露天は、波の音がよく聞こえます」
磁馬は少しだけ目を明るくした。
「描ける?」
汐乃は笑った。
「人のいない時間なら。あと、先にお湯へどうぞ。潮風で冷えますから」
「うん」
宿の廊下は、
畳の匂いと海の匂いが混ざっていた。
窓の外には、
港の食堂が見える。
魚を焼く匂いが、
湯けむりより強く入ってきた。
磁馬の腹が小さく鳴った。
汐乃は聞こえたらしく、
少し笑った。
「夕飯まで待てますか」
「たぶん」
「たぶんは危ないですね」
「よく言われる」
部屋へ荷物を置くと、
磁馬はすぐ露天風呂へ向かった。
湯船の向こうに、
海が見えた。
岩の間から湯けむりが上がり、
その奥で波が寄せている。
湯に入ると、
体の中に残っていた旅の重さが、
少しずつほどけていった。
波の音があるせいか、
湯面の揺れまで海の一部のようだった。
磁馬は目を閉じた。
ざぶん。
湯が揺れる。
ざぶん。
波が返る。
どちらが先かわからなくなる。
湯から上がったあと、
磁馬は露天の端でスケッチ帳を開いた。
海。
湯けむり。
岩。
港の屋根。
遠くの船。
線を引く。
湯けむりは上へ。
波は横へ。
潮風は斜めへ。
それぞれ違う向きに動いているのに、
港町では一つに見える。
その時、
湯札を確認しようとして、
布包みが手から滑った。
かたん。
湯札が床に落ち、
濡れた石の上を少し転がる。
磁馬の顔が止まった。
「落ちた」
すぐにしゃがむ。
湯札は石のすきまの前で止まっていた。
あと少しで奥へ入るところだった。
汐乃が通りかかり、
すぐに灯りを低くした。
「動かさないでください。こちらから」
磁馬は両手を止めた。
汐乃が細い竹ばさみを出し、
そっと湯札を寄せる。
湯札は濡れていたが、
無事に戻ってきた。
「見つかった」
磁馬は深く息を吐いた。
汐乃は布で湯札を拭いた。
「港町は床もすべります。気をつけてくださいね」
「かなり気をつける」
「かなり、ですね」
湯札を鞄の奥へ戻す。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
夕方、
磁馬は港の食堂へ出た。
店の前で、
緑の上着を着た少年が魚の箱を運んでいた。
「旅館の人?」
「泊まってる」
「魚、食べる?」
「食べたい」
少年は笑った。
「いい返事。ぼく海斗」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
食堂の中から、
灰色の前掛けをつけた男が顔を出した。
「腹すかせた顔だな」
「すいてる」
磁馬は正直に答えた。
男は大きく笑った。
「なら入れ。俺は辰蔵だ」
磁馬は小銭袋を出そうとした。
辰蔵が手で止める。
「今日はいい。湯札を探してた絵描きだろ。汐乃から聞いた」
「でも」
「そのかわり、港を描いていけ」
磁馬は少し迷った。
魚をその時代で食べるなら、
ちゃんと払うつもりだった。
けれど、
奢ってもらうこともある。
出会った人の好意を、
無理に押し返さないことも、
大事だと思った。
「ありがとう」
「よし。座れ」
出てきた魚料理は、
湯上がりの体に強かった。
焼き魚。
煮た魚。
小さな刺身。
温かい汁。
漬物。
飯。
磁馬は一口食べた。
海の味がした。
「うまい」
海斗が得意そうに笑った。
「港の魚だから」
「かなりうまい」
辰蔵は腕を組んだ。
「わかってるな」
磁馬は食べながら、
何度も料理を見た。
魚の皮。
湯気。
皿の端。
箸の跡。
食堂の窓から見える港。
描きたい。
でも食べたい。
磁馬は少し迷い、
結局、少し食べてから描いた。
辰蔵が笑う。
「忙しい食い方だな」
「なくなる前に描く」
海斗がのぞき込む。
「魚も動く?」
「たぶん」
紙の中で、
湯気が少し揺れた。
皿の魚は動かない。
けれど、
窓の向こうの港で、
船の影がゆっくり揺れていた。
海斗は目を丸くした。
「港が入ってる」
「魚は港から来たから」
辰蔵は少し黙って絵を見た。
「いいこと言うじゃないか」
食後、
磁馬は港へ出た。
海斗が案内してくれた。
「こっちから見ると、旅館の湯けむりと船が一緒に見える」
「いい場所」
「だろ」
港の端には、
古い防波堤があった。
夕方の海が、
そこでゆっくり色を深めている。
宿の露天風呂から上がる湯けむりが、
港の屋根の上へ流れていた。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
港町の湯。
海。
温泉。
魚料理。
湯札。
汐乃。
海斗。
辰蔵。
全部を一枚へ入れる。
波が寄せる。
湯けむりが上がる。
魚の湯気が食堂から立つ。
紙の中で、
三つの湯気が少しずつ混ざった。
海斗が横で見ていた。
「湯気ばっかり」
「でも全部違う」
「温泉の湯気、料理の湯気、海の湿った風」
「うん」
海斗は少し照れたように笑った。
「なんか、港って感じする」
その時、
磁馬のペンが防波堤の石の上を転がった。
ころ。
石のすきまへ入りかける。
海斗がすばやく手を伸ばした。
「取った!」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
「また落としたね」
「また落とした」
「見つかったから帰れる?」
「うん」
二人は少し笑った。
夜、
食堂へ戻ると、
辰蔵が温かい汁をもう一杯出してくれた。
「冷えただろ」
「いいの?」
「絵代だ」
磁馬は両手で椀を受け取った。
「ありがとう」
汐乃も食堂へ来ていた。
「港まで描いたんですね」
「うん」
磁馬は小さな紙を三枚出した。
汐乃には、
露天風呂の石のそばで湯札を拾う姿。
茶色の作務衣。
やわらかい灯り。
海を背にした横顔。
海斗には、
防波堤でペンを受け止める姿。
緑の上着。
潮風で乱れた髪。
後ろに揺れる船。
辰蔵には、
魚料理を出す姿。
灰色の前掛け。
太い腕。
湯気の立つ皿。
三枚の絵の中で、
湯けむりと海風が少しだけ動いていた。
「もらっていいの?」
海斗が聞いた。
「助けてくれたから」
辰蔵は絵をじっと見た。
「食堂に飾る。腹が減る絵だ」
汐乃は静かに笑った。
「宿にも飾りたいです。港町らしいですから」
夜の部屋で、
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
お腹も満ちていた。
奢ってもらった魚料理の味が、
まだ舌に残っている。
鞄の中の絵では、
港町の湯が静かに時間を進めていた。
湯けむりが上がる。
波が寄せる。
魚料理の湯気が立つ。
湯札が落ちる。
ペンが落ちる。
見つかる。
そして、
港の夜が少しずつ深くなる。
磁馬は布団に入り、
波の音を聞いた。
ざぶん。
ざぶん。
温泉のあとに聞く海は、
少し近くて、
少しやさしかった。
コメント
1件
いやあ、もうこのエピソード、めちゃくちゃ良かったです…! 港町の潮の匂いとか、湯けむりと波の音が混ざる感じが、読んでるだけで目に浮かぶようでした。磁馬さんが「たぶん」「よく言われる」って返すところ、すごくキャラ立ってて好きです。汐乃さんや海斗くん、辰蔵さんとのやり取りも温かくて、湯札やペンを落としても見つかる優しさが沁みました。温泉と海と魚と、全部が一枚の絵に収まるような、そんな穏やかな時間をありがとうございます。