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第九湯 木造浴場
木造浴場は、入口から静かに鳴っていた。
ぎし。
小さな床板の音。
湯の流れる音。
桶が当たる音。
その全部が、古い木の中を通って、
少しやわらかく聞こえた。
磁馬は玄関で立ち止まった。
壁も柱も床も、
長い時間を吸っているようだった。
新しい建物のまっすぐな線ではない。
少し曲がり、
少し沈み、
人が歩いた分だけ形を変えた線。
「いいなあ」
磁馬は肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
木札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
受付にいた少女が顔を上げた。
茶色の前掛け。
後ろでまとめた髪。
指先には帳面をめくる癖がある。
「入浴ですか」
「うん。描いてもいい?」
少女は少し瞬きをした。
「浴場を?」
「人がいない時に」
奥から、灰色の作務衣を着た男が出てきた。
「絵描きか」
「たぶん」
「たぶんで何時間も座られると困るな」
男はそう言ったあと、
少し笑った。
「周平だ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だな」
「よく言われる」
少女が小さく名乗った。
「柚乃です」
周平は浴場の奥を指した。
「昼すぎなら客が少ない。濡れない場所からなら描いていい」
「ありがとう」
「ただし、床は滑る。物も落とすな」
磁馬は真剣にうなずいた。
「かなり気をつける」
柚乃が少し笑った。
浴場は広くはなかった。
けれど、深かった。
高い天井。
太い梁。
湯船の縁。
洗い場の木の腰掛け。
壁に残る古い傷。
そこに湯けむりがゆっくり重なっていた。
磁馬は濡れない板間の端に座った。
スケッチ帳を開く。
まず、柱を描いた。
まっすぐではない柱。
少しだけ傾いているようで、
ちゃんと建物を支えている柱。
次に梁。
次に湯船。
それから、
床板の隙間。
線を引くほど、
木造浴場の音が紙の中へ入っていく気がした。
ぎし。
こつ。
ちゃぷん。
磁馬は何時間も描いた。
柚乃が時々見に来る。
「まだ描いてるんですね」
「うん」
「お風呂、入りました?」
「まだ」
「冷えますよ」
「もう少し」
周平が通りかかる。
「その、もう少しが長いんだ」
「よく言われる」
周平は湯の温度を確かめ、
木の桶を直した。
その手つきも、
磁馬は描いた。
木の建物を守る手。
古い場所を、
古いまま続ける手。
その時、
磁馬のペンケースが少し傾いた。
細いペンが一本、
ころりと転がる。
磁馬はすぐに手を伸ばした。
けれどペンは床板の節へ当たり、
向きを変え、
板の隙間へ入ってしまった。
磁馬の顔が止まる。
「落ちた」
柚乃がすぐにしゃがんだ。
「どこですか」
「ここ」
周平も来た。
「床下へ入ったか」
磁馬は隙間をのぞく。
暗い。
見えない。
「探す」
周平はため息をついた。
「見つかるまで帰らない顔だな」
「うん」
柚乃が細い竹べらを持ってきた。
「これで届くかもしれません」
磁馬は受け取り、
隙間へそっと入れた。
かさ。
何かに触れる。
出てきたのは、
小さな木くずだった。
もう一度。
今度は古い紙片。
周平がそれを見て言った。
「昔の入浴券だな」
柚乃が少し驚いた。
「こんなところに」
磁馬は紙片を周平へ渡した。
「ここのもの」
周平は受け取り、
静かにうなずいた。
「戻ってきたな」
さらに探す。
竹べらの先が、
硬いものに当たった。
「ある」
磁馬は息を止めた。
柚乃が灯りを低くする。
周平が床板の端を少し押さえる。
ペンの先が見えた。
磁馬は竹べらでゆっくり寄せる。
ペンは少し動き、
また止まる。
柚乃が小さく言った。
「右です」
磁馬は右へ寄せる。
「もう少し」
ペンが隙間の手前へ来る。
周平が手ぬぐいを広げる。
ころん。
ペンが床へ出た。
磁馬は両手で受け取った。
「見つかった」
柚乃がほっと息を吐く。
周平は笑った。
「浴場の古い物まで一緒に見つけたな」
「ありがとう」
磁馬はペンを布で拭き、
ペンケースをしっかり閉じた。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
そのあと、
磁馬は湯に入った。
木の湯船は、肌にやわらかかった。
湯は熱すぎず、
ぬるすぎず、
古い木の匂いを少し含んでいる。
肩まで浸かると、
天井の梁が見えた。
湯けむりの向こうで、
何十年も同じ場所にある線。
磁馬は目を細めた。
「建物も、湯に入ってるみたいだ」
周平が外から聞いて笑った。
「そう見えるか」
「うん」
「なら長風呂だな。この建物は」
柚乃も笑った。
湯上がりに、
磁馬は冷たい茶をもらった。
両手で持つ。
「うまい」
柚乃はうれしそうにした。
「湯上がり用です」
「かなりうまい」
周平が言う。
「何でもかなりだな」
磁馬はまたスケッチ帳を開いた。
木造浴場。
柱。
梁。
湯船。
床板。
落ちたペン。
昔の入浴券。
柚乃の灯り。
周平の手ぬぐい。
絵の中で、
湯けむりだけがゆっくり動いた。
床板が少し鳴る。
誰も歩いていないのに、
古い浴場の時間だけが歩いているようだった。
柚乃が絵をのぞく。
「音がしそう」
「少し入った」
「絵に?」
「うん」
周平も見た。
「古い建物は、音まで込みだからな」
磁馬はうなずいた。
「だから何時間も描いた」
小さな紙を二枚出す。
柚乃には、
灯りを持って床板の隙間をのぞく姿。
茶色の前掛け。
静かな足音。
真剣な目。
周平には、
手ぬぐいを広げてペンを受ける姿。
灰色の作務衣。
太い梁を背にした立ち姿。
古い木を守る手。
柚乃の絵では、
灯りが床板をやわらかく照らしていた。
周平の絵では、
湯けむりが梁の下をゆっくり流れていた。
「いただいていいんですか」
柚乃が聞いた。
「ペンを探してくれたから」
周平は絵を見て、
少し長く黙った。
「受付に飾るか。古い浴場も、たまには自分の顔を見たほうがいい」
夜になっても、
木造浴場はまだ小さく鳴っていた。
ぎし。
ちゃぷん。
こつ。
磁馬は鞄を確認する。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
木札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
床下から出てきた昔の入浴券は、
周平が帳場の小箱へ入れた。
戻るべき場所へ戻った。
磁馬はそれが少しうれしかった。
鞄の中で、
木造浴場の絵が静かに時間を進めている。
湯けむりが上がる。
床板が鳴る。
ペンが落ちる。
昔の入浴券が見つかる。
湯船の木が、
また少しだけ湯を吸う。
古い建物は、
古いだけではなかった。
まだ今日も、
湯の音を覚え続けていた。
羽海汐遠
10,941
翠
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コメント
1件
わあ、素敵なエピソードでした……! 古い木造浴場の、時間の積み重ねが染み込んだ空気が、読んでいるこちらにもじんわり伝わってきました。特に、ペンを探す場面で三人が自然に協力するところ——周平さんの「戻ってきたな」という一言に、建物自体も長い年月を共にしてきたんだなと感じて胸が熱くなりました。磁馬さんが「音を絵に入れた」と言うのも、とてもよくわかる気がします。私もこのお話の、ぎし、ちゃぷん、という小さな音をずっと覚えていたいです。