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第6話:アストシップ・エラーレ
空の西端を巡航していた帆船《アストシップ・エラーレ》が、
半年ぶりに帰還した。
無人で。
航路ログなし。
風力帳票異常。
乗員名簿、全項目“空白”。
報告を受けたのは、漂流記録局《フロートル調査部》。
調査官ユハ・ヴィレは、送迎気流艇で現場に降り立った。
ユハは18歳。
肩にかかる黒緑の髪を浮力シートで束ね、
灰銀の瞳は《エアロハード製・視界安定バイザー》越しに常に冷静。
調査用の服は《アスモン社》提供の“空間適応布”で、風圧に応じて形を変える。
天球での調査官とは、「浮かない真実」に触れることを恐れぬ者だけがなれる職である。
エラーレ号の帆は破れかけ、
空中に漂うはずの水粒子検知装置には**“潮の気配”**が残されていた。
天球では「潮(しお)」という概念自体が、**“溶解の香り”**として伝説的に恐れられている。
潮に触れた者は、肉体の輪郭が曖昧になり、空気に還るとされている。
船内には、ただひとつ。
《ネフリオ式・泡音声記録装置》が残されていた。
ユハは指先で触れ、泡を起動する。
「記録泡、エラーレ号航路第299時間目。 我々は、雲の裂け目を越えた。 そこに、海があった気がする。 …いや、夢かもしれない。」
泡ははじけた。
が、その映像が頭の中に残った。
泡が残像を与えることはありえない。
だがユハは、確かに“波”と“声”を感じた。
同乗していた補佐官が、言った。
「それ、たぶん“星泡障害”です。
最近増えてる、“空では見えない星の影響”ってやつ。」
星は天球において“未完の夢”の象徴。
記録に残らなかった思念は、夜空の泡として漂う。
それが多すぎる夜には、記憶や視覚に干渉する現象が起きるとされている。
だがそれは、自然ではなく“信仰”として説明されるものだった。
エラーレ号の中庭では、地球語のような記号が刻まれた銘板が発見された。
「W」「e」「b」「O」「S」などの並び。
ユハはその意味を知らない。
ただ、それが《空の起源文字》として《泡水殿》に祀られていた形に酷似していることだけを知っていた。
その夜、ユハはエラーレ号の上で眠った。
そして夢を見た。
海に立っていた。
重さが、確かにあった。
風が、押し戻さなかった。
目が覚めると、体が少し重かった。
浮いていなかったのだ。
—
翌日、報告書を提出する際、ユハはこう書いた。
「記録泡に触れた結果、
私は一時的に、夢に引かれました。
浮かない感覚を“恐れ”として報告すべきか。
それとも、かつての人々が“それで生きていた”という記録として残すべきか。」
報告は却下された。
だがユハの指先に、微かに潮の粒が残っていた。