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第7話:ゼロ・グラヴィ
浮遊都市《カサル・ミール》の東区が、沈んだ。
市民たちは“沈む”という言葉を口にしない。
代わりにこう表現する。
「あそこは、浮きを忘れた。」
サレ・ヨムは、空間重力管理機構の整備士だった。
17歳、旧型の《エアロハード式保守装束》を着込み、両耳には浮力バランサーを装着している。
背は低め、灰蒼の髪を三つ編みにし、指先には風圧に応じて形を変える修復グローブ。
言葉は少ないが、風の“乱れ”には誰よりも敏感だった。
東区が沈んだのは、グラヴィゼロ状態が発生したためとされていた。
それは、「浮力・風圧・磁気圏すべてが同時に欠落する空間」のこと。
そんな空間が発生するはずがない。
それが天球の“常識”だった。
サレは調査のため、沈下地点に向かった。
同行するのは記録分析官《レア・ノマ》、18歳。
短い白銀の髪、月の紋章が刺繍された観測衣に、《フロートル社製:多重泡記憶読解端末》を装備している。
レアは泡を拾い、再生した。
「この風……切れてるわ。 誰かが“浮くための記憶”ごと削除してる。」
泡には、風が録音されていなかった。
音が消えていた。
サレはさらに地下へ降り、破損した浮力炉の中心で、奇妙なパネルを見つける。
そこには、こう刻まれていた。
「Grav_One」
レアが反応する。
「それ、地球時代の重力OSよ。 今は《ゼロ化の呪い》って呼ばれて、泡水殿に封印されてる。」
地球では「重力」が世界を保っていた。
だが天球では、それは**“人を下に引きずる死の手”**として封印されている。
“G”の記号は現在、泡水の紋章「グラー」へと変化し、重さを遠ざける祈りの儀式で用いられていた。
サレは重力装置に触れた。
一瞬、身体が**“沈みかける”**感覚が走る。
風が音を立てない。
音も、泡も、ない。
それは、浮かばないことそのもの。
「これは……楽だ。」
浮かないとは、重いということ。
だがそこには、確かに安心感のようなものがあった。
その夜、カサル・ミールでは満月祭が行われた。
月は、記憶を見守る“光の目”。
天球では、月に向かって過去を祈り、星に向かって未来を誓う。
だが今夜、星が少なかった。
泡神殿の月官が言う。
「重い記憶が、星の浮力を奪っているのです。
忘れられなかった者が、誰かの上に座っている。」
—
サレは祈らなかった。
その代わりに、泡をひとつだけ放った。
「浮く理由が信仰なら、 信じなければ、沈んでもいいのか?」
泡はまっすぐ昇り、
途中でふわりと揺れて、雲の上で弾けた。
そして翌朝。
《ゼロ・グラヴィ》の跡地には、花が咲いていた。
それは、風で運ばれない、
**“地面に根を張った植物”**だった。