2025年11月30日。入金期日が過ぎた。
育代は、それでも仕事に行った。
働かないと、生活が回らない。
職場のデスクの上に、
朝つけた化粧の粉が、落ちたままになっていた。
3,800
数字が頭の中で、壊れたメトロノームのように鳴り続けていた。
家に帰ると、ポストに封筒があった。
「東京第一信用銀行 融資管理部」
白い封筒。印刷された住所。
手紙というより、「通告」という感じがした。
中を開けると、
「ご返済の確認が取れておりません」
という定型文が並んでいた。
その夜、理恵はピアノを弾いた。
曲は、ドビュッシーの「夢」。
音は優しいのにどこかこの、壊れた家の中を漂うようだった。
12月に入って、二通目が届いた。
「期限の利益喪失通知書」。
黒い太字の文面で、
「全額返済を求めます」と書かれていた。
返せるはずがない。
机の上の湯飲みから、
温くなったお茶の湯気が細く上がっている。
その湯気を見つめながら、
育代は「これが最後の温もりだ」と思った。
年が明けて、一月。
ポストの中には、また新しい封筒。
今度は銀行ではない。
「東京地方裁判所 民事執行部」
黒い文字が、まるで判決のように見えた。
3,800
その数字だけが、まだ現実に繋ぎ止めていた。
封を切る手が震える。
「不動産競売開始決定通知書」
「執行官による現況調査を実施いたします」
期日:一月二十六日 午前十時。
日付を見た瞬間、
心臓が小さく鳴った。
それでも、時間は止まらなかった。
一月二十六日。
午前九時五十分。
エレベーターの音が、遠くから近づいてくる。
廊下の向こうで、
低い声と、革靴の音がした。
ピンポーン。
理恵が顔を上げる。
「お母さん……誰?」
「……出なくていいの。」
インターホン越しに声が聞こえた。
「東京地方裁判所の者です。現況調査で伺いました。」
ドア越しに見える影が、
ゆっくりと動いている。
育代は、扉の向こうを見つめながら立ち尽くした。
返事をしなかった。
でも、執行官は何も言わず、
静かにポストに一枚の書類を差し込んでいった。
その日の夜。
理恵がピアノを弾く。
育代は、ソファに座ってその音を聴いていた。
曲は、「夢」の続きのようだった。
音がひとつ鳴るたびに、
天井の蛍光灯がゆらめいた。
諦めと、零落。
その光が、まるで
家の中の「残り時間」を数えているように見えた。
あいつさえ……あいつさえ……
3,800……
……………………………………………………
「静かに崩れる音ほど、美しいものはない。
だが、それを聴ける耳を持つ者は少ない。」
― 坂本龍一※出典不明
……………………………………………………







