育代は、理恵と一緒にピアノ教室に行く。ピアノ教室を辞める事を流元と会って話した。
「そうですか……いろいろとご事情もお有りでしょう。理恵さんの才能が埋もれていくのは私としても辛いところです。ただ、これからもピアノは続けて下さいね、理恵さん。」
「講師、今までありがとうございました。」
ふん……金づるが一人消えたか。
帰る親子を見ながら、流元は毒づく。
「理恵……もうすぐうちのピアノも、家も無くなるから。」
(おとうさん……なんだね)
手をつなぐ親子を待つのは……
マンションの前には、裁判所の執行官と銀行の担当者、
それに作業員たちが無言で並んでいた。
東京第一信用銀行融資管理部、佐原。
「黒川さん。東京地方裁判所の命令に基づき、担保不動産の引き渡しを実施いたします。」
沈黙のまま、育代は鍵を渡す。
「黒川さん、立ち会いをお願い致します。」
多くの、マンションの住民が見ている中で、見聞が開始された。隣人の山嵜夫婦も心配そうにそれを見ている。
次々に運び出される家具、鑑賞物……
リビングの椅子に座り、茫然自失の育代。
その横には……理恵。
ピアノが運び出される。
この子が……世界で。
作業が終わる頃には、夕日が差し込み始めていた。
ピアノが消えた部屋は、不自然なほど広く見える。
執行官が立会い書類を確認し、
佐原の方に静かにうなずいた。
「……以上で、引き渡し手続きは完了です。」
部屋の空気が一瞬だけ止まった。
佐原は手帳を開き、静かな声で言った。
「黒川さん。
本日をもちまして、担保不動産および預金資産の
すべての査定作業が完了いたしました。」
育代は、反射的に顔を上げる。
「査定の結果につきましては、
後日、正式にご報告させていただきます。
追ってご連絡いたしますので、
それまでにお引越し先のご住所をお知らせください。」
言葉の途中で、佐原は一度だけ視線を落とした。
目の奥にわずかな哀れみがあった。
けれど、その声は最後までか「銀行の声」のままだった。
「……追って、ご連絡いたします。」
書類を封筒に戻す音だけが、
部屋の中に乾いた響きを残した。
ふっ……
育代は、笑った。
「この焼酎は、持って行かねぇんだぁ……」
瓶の口を指でなぞりながら、
育代は空になった部屋を見渡す。
誰もいない。
何もない。
けれど、まだ「音」だけが、どこかに残っている気がした。
あいつさえ……あいつさえ……
笑い声と、嗚咽の区別がつかなくなる。
夕日が沈みきる前に、
部屋の灯りが、ひとつ消えた。
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「人間には触ることのできるものを持っておきたい欲望がある。」坂本龍一※出典不明
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