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午後六時。
私と蒼は居酒屋にいた。春田さんと満井くんと会うために。
私のバッグの中には、婚姻届が入っていた。後は私が記入するだけ。
『これは咲が持ってて。いつ出すかは、咲に任せるよ』
おじさまが証人欄に記入を済ませると、蒼は言った。
私は黙って、それを受け取った。たかが紙切れ一枚なのに、鉛のような重み。
これは、罰だ——。
これまで、散々蒼を試して、焦らしてきたことへの罰。
私の覚悟を試されてる————。
「成瀬さん!」
呼ばれて振り返ると、春田さんと満井くんが店の入り口に立っていた。
「春田さん、満井くん」
春田さんは薄いピンクのワンピースで、満井くんはTシャツにジャケットとジーンズ姿で、社内での印象とは違って見えた。
若いな……。
「私服だと、二人とも若いな……」と、蒼が呟いた。
「ふふ……」
「なんだよ?」
「二人とも、昨日はお疲れ様」
私は春田さんと満井くんに言った。
「いえ、成瀬さんと課長の方が……」と言いかけて、春田さんがハッとして手で口を押えた。
「すみません。もう……課長じゃないですよね」
「気にしないで。蒼、でいいよ?」
春田さんは少し恥ずかしそうに笑った。
可愛いなぁ……。
「今の……庶務課はどう?」
乾杯をして、私と蒼が辞めた後のホールディングス総務部の様子を聞いた。
一時は混乱もあったけれど、課を越えて協力し合い、今ではすっかり平穏を取り戻したようだ。
「でも……。人員整理とか異動があるんですよね?」と、満井くんが聞く。
「昨日の改革案で……」
「ああ……」と、蒼が横目で私を見ながら呟いた。
「不躾ですけど、あの改革案は成瀬さんが作ったんですか?」
「どうして?」
「あの改革案……、築島さんから預かっていた資料と内容がよく似ていたので……」
満井くんは気まずそうに言った。
「すみません! 資料……読みました」
「気にしなくていいよ。読まれてもいいと思ったから、満井くんに預けたんだし」と、蒼が笑う。
蒼が満井くんに二種類の資料を預けていたことは、聞いていた。その一つを、真が差し替えたことも。
「あれは、半分は蒼が作ったものなの」
「やっぱり……。じゃあ、どうして直前で差し替えに?」
「蒼は知らなかったのよ。私が徳田社長から改革案の内容を聞いていたことを」
「え……?」
春田さんと満井くんは驚いていた。
蒼は、察しがついていたようだ。
「咲は秘密主義なんだよ」
「でも……」
「あれは、本当に念のために用意したものだったんだよ。昨日の段階では、俺があの改革案を提示して承認されるとは思っていなかったから。それを、咲が最も効力のある状況で活用したってだけだよ」
「黙ってそんなことされて、怒らないんですか?」と、満井くんが少し不満そうに聞いた。
「惚れた弱み……かな?」と、蒼が私に笑う。
「正直なところは?」
「すげームカついた」と言って、ジョッキに半分ほど残っていたビールを飲み干す。
やっぱり……。
「俺の知らないところで徳田社長とこそこそ会ってたとか、あり得ないだろ。俺は三か月我慢したのに」
「そこ?」
春田さんと満井くんが拍子抜けした表情で蒼を見た。
「改革案をお前が提示することを持ち掛けたのは、徳田社長だろ」
え……。
「最初に徳田社長とコンタクトを取ったのは咲だろうけど、咲の立場を知って改革案を託したのは社長だろ?」
「どうして、そう思うの?」
「咲は俺が改革案を作っていることを知らなかったはずだし、知っていても自分が手を加えようなんて考えない。けど、徳田社長は改革案の内容を知っていて、それだけでは物足りないことも、提示して承認されるには俺の立場が弱いこともわかっていた」
ホントに……、もう……。
今すぐにキスしたい——。
そう思った瞬間、蒼の唇が私の唇に触れた。
「————っ!」
「惚れ直した?」
蒼が子供のような無邪気な顔で笑った。
「ばかっ!」
恥ずかしくて、春田さんと満井くんの顔を見れなかった。