放課後の空は、晴れたようで晴れていなかった。
雲の切れ間から差す光は弱く、校舎の窓にまだ水滴が残っている。さっきまで激しく降っていた雨は一旦止んだものの、湿った風が服を重くした。
廊下で荷物をまとめていると、背後から声が落ちてきた。
「……帰んの?」
振り向けば、晴弥がそこにいる。
無愛想な、いつも通りの顔。だけど、声は少しだけ柔らかかった。
「うん。そろそろ」
朔が答えると、晴弥は何も言わず、当たり前のように歩き出した。
「……ついてきてる?」
問い返すと、晴弥は前を向いたまま、短く言った。
「送る」
拒む理由は、ない。
ただ、驚きと戸惑いで、頷くまでに一拍遅れた。
校門を出る。
濡れたアスファルトが夕日を鈍く照り返している。
濃い雲がまだ空の半分を覆い、どこか不安定な色をしていた。
並んで歩いても、手の甲が触れることはない。
けれど、距離はいつもより近かった。
朔が半歩分だけ前に出ると、晴弥の靴音が自然に合わせてくる。
無言のまま歩く時間が、妙に長く感じた。
言葉がないのに、言葉にできない何かばかりが満ちてくる。
「……ここ、俺んち」
住宅街の途中、塀も高くなく、特徴のない家の前で晴弥が立ち止まった。
玄関灯はついていない。
窓にはカーテンがぴたりと降り、生活の気配が見えなかった。
「まだ誰も帰ってないの?」
朔が訊くと、晴弥は視線を落としたまま答える。
「父さん、遅いから」
それ以上何も言わないのに、言いたくないことがそこにあるのがわかった。
聞いちゃいけないものに、指先が触れたような感覚。
沈黙が落ちる。
蝉の声だけが、遠くでかすれている。
そのとき、ぽつ、と朔の頬に冷たいものが落ちた。
反射的に空を仰ぐと、雲がまた厚みを増している。
「……降る」
晴弥が短く言うと、朔の手から傘を奪うように取った。
器用に開き、自然に朔の頭上へ差し出す。
「風邪治ったばっかだろ。濡れんな」
言葉はぞんざいなのに、傘は朔の側へ深く傾けられていた。
晴弥の右肩は、もう濡れ始めている。
「でも……晴弥の方、濡れてる」
朔が言うと、晴弥は眉を寄せた。
「俺はいいんだよ」
声が少し強くて、朔は言い返すことができなかった。
指先が、柄の上でかすかに触れた。
その瞬間――晴弥の指がぴくりと震え、まるで触れられることに慣れていない子どものように、小さく息を呑んだ気配がした。
朔はそっと視線を晴弥に向ける。
濡れた前髪の影に隠れた横顔。
固く結ばれた唇。
押し殺した何かを飲み込む喉が、ぎこちなく上下する。
(ひとりで、全部我慢してきた人なんだ)
胸の奥が、じわりと締めつけられる。
「……ありがとう」
朔が言うと、晴弥はほんの一瞬だけ、目を見開いた。
けれど次の瞬間には、いつもの不器用な仏頂面に戻る。
「別に。……面倒だから」
面倒なら、こんな優しさを向ける必要もないのに。
その矛盾が、晴弥という人だった。
玄関の前に立つ二人。
雨脚は次第に強まっていく。
傘の内側に落ちる水音が、二人の沈黙の代わりに話していた。
朔は覚悟を決めるように口を開いた。
「……また明日も、話せる?」
晴弥は少しだけ驚いた顔をして、朔を見た。
暗くなりかけた空を背景に、その瞳が微かに揺れる。
「話すことなんか、ねぇだろ」
言葉は拒絶なのに――
声が、優しかった。
朔は小さく笑って、傘を握る手に力を込めた。
「じゃあ、話すこと、つくるよ」
晴弥は答えない。
ただ、目を逸らす。
でもその頬の端が、かすかに赤い気がした。
「……帰れよ」
背中を向けかけた晴弥の腕を、朔はほんの一瞬だけ掴んだ。
濡れた布越しに触れた体温が、確かにそこにある。
「晴弥」
呼んだ名が、雨音に溶けずに届いた。
晴弥は振り返らないまま――
「……また明日」
かすれるように、その言葉だけを落とした。
それは、約束にも似た音だった。
朔は手を離し、ゆっくりと家路につく。
背中に視線を感じて、思わず振り向いたが――
晴弥はもう、扉の前で動かずにいた。
降りしきる雨の中。
ぽつんと取り残された影が、ひどく孤独で。
それでも――どこか、救いを求めているように見えた。
(弱さまで、隠そうとするんだ)
傘の内側で、朔はそっと呟く。
――なら、俺が見つける。
――俺が気づく。
雨粒がまた、二人の距離に線を引く。
けれど朔の心は、もうその線を越えていた。







