テラーノベル
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鴻上さんの声をかき消すどころか、鼓膜を劈くような盛大なクラクションの音に、私は思わず目を閉じて耳を塞いだ。と同時に、夜とはいえ六月には感じることのない寒さに全身を覆われた。
全身の血液が凍りつくような寒さ。
そして、ハンマーで殴られているのでは思うほどの頭痛。
更には、生クリームが全て出てきてしまいそうなほどの吐き気。
耳の奥では、クラクションの音が鳴りやまない。
寒い。
痛い。
気持ち悪い。
煩い。
「止まって!!!」
自分の叫び声にハッとした。
目を開け、耳を塞いでいた手を離すと、クラクションの音は止んでいた。
鴻上さんが心配そうに私を覗き込んでいる。
何がどうしてかはわからないが、彼の両手が私の腰を抱いていた。
「大丈夫?」
「は……い」
「あ! ごめん。これはっ――」
鴻上さんがハッとして私から手を離し、頭の横に上げた。
「――乾さんが倒れそうに見えて、咄嗟に!」
事実だろう。
中途半端に膝と腰を曲げた体勢がツラい。
私は膝と腰を伸ばし、彼を見た。
「すみません。大きな音に驚いてしまって」
「あ、うん。俺もびっくりした。今朝、きみには車に気をつけろとも言われていたし」
確かに言った。
それで咄嗟に私の身を案じてくれたのなら、もしかして庇おうとしてくれたのかもしれない。
そうだといいな、なんて勝手に想像した。
「けど、本当に大丈夫? 倒れそうになったと思ったら『止まって』って叫んだよね?」
そうだ。
確かに言った。
理由なんてわからない。
そう感じた。
止まって欲しいと。
来てはダメだと。
強く思ったのだ。
いつもの、嫌な勘。
すごく、嫌な勘。
今朝、鴻上さんに感じた時より強い、勘。
というより、感。
悪いことが起こるという、予感。
絶対に起こるとわかる、感。
心臓が猛スピードで跳ねだす。
分厚い脂肪をも打ち破きそうな勢い。
まだ身体は寒いのに、汗が滲む。
私は周囲を見た。
仕事帰りの会社員、腕を組んで歩く恋人たち、笑い合う友達。
たくさんの人たちが行き交う中に、知った顔を見た。
スーツを着て、黒いビジネスバッグと白い紙袋を持って交差点に向かって歩く寺田くん。
白い紙袋は恐らく、明日の合コン用のワイシャツ。
片側三車線の大通りの向こう側が見えるだなんて自分でもびっくりの夜目だが、確かに見える。
私はバッグからスマホを取り出すと、彼の番号に発信した。
が、発信音より先に彼がスマホを耳に当てる。
当然、私のスマホからは『ツーツーツー』という話し中を知らせる音が鳴るだけ。
全身の毛という毛が逆立つような、凍てつく寒さに、私は思わず走り出した。
「寺田くん!」
「えっ!? 乾さん!??」
だが、ただでさえ運動神経という神経が欠落しているのではと思えるほどの足の遅さに、重い身体は生クリームを吸い込んで、いつも以上に足が進まない。
「乾さん、どうしたの?」
走る、というよりは競歩に近い歩みで並走する鴻上さんは、息ひとつ乱さずに聞いた。
どう考えても、私より彼の方が身軽だ。
私は真っ直ぐ肘を伸ばして寺田くんを指さした。
「鴻上さん! あの交差点の向こうにいる白い紙袋を持った男の人が危ないんです。彼を止めてください!」
「え?」と、鴻上さんが指の方向を見る。
交差点の歩行者信号が赤に変わる。
当然、右から左へ、左から右へと三列ずつに並んで行き交う車で、その向こうなど見えない。
「何でもなければそれでいいんです。だけどっ――! きっと……っ」
五十メートルも走ったかという程度で、私は既に息も切れ切れ。
「事故で死んじゃうっ!!」
限界だった。
同僚の生死が懸かっているにも関わらず、私の足は上がらない。
ぐっと肩を掴まれて、私の足は完全に止まった。
「彼の名前、わかる?」
「て、寺田くんです!」
「わかった」と言って、鴻上さんは持っていた真新しそうなビジネスバッグを私に押し付けた。
「ここにいて」
そう言うや否や、彼は弾かれたパチンコ玉のように走り出した。
そして、交差点手前の地下鉄出入口の階段に消えて行った。
階段を下りて、正面の階段を上がれば、寺田くんのそばまで行ける。
そうか、と思った瞬間、先ほどよりさらに大きなクラクションの音がした。
一番右側の車線を走っていた車が反対車線にはみ出し、対向車のトラックがクラクションを鳴らしながら衝突を避けようとハンドルをきる。周囲の車が一斉に急停車し、キキーッとタイヤが摩擦に悲鳴を上げる音や、ドンッと追突する衝撃音が響いた。
周囲の歩行者は足を止め、呆然と事故の様子を見ている。
中には、キャッと悲鳴を上げている女性もいた。
私は、瞬きすら忘れて目の前の惨劇を見ていた。
事故の原因となった車は既に停止していたが、避けようとハンドルをきったトラックは、何を積んでいたかはわからないが荷物の重みで車体が傾き、制御不能状態。
スローモーションのようにゆっくりと片側のタイヤが宙に浮き、その後反対のタイヤも浮いてしまった。
ドカンッと爆発のような音がして、横倒しになったトラックは真っ直ぐ寺田くんが歩いていた方向に滑っていく。
「寺田くん――――っ!!」
私の叫び声は、トラックがショーウィンドウに突っ込む衝突音でかき消された。
その瞬間、周囲の目撃者の悲鳴が響きだす。
「寺田……く――」
私はただ、見ているしかできなかった。
初めてだった。
こんなにハッキリと、何が起こるか感じてしまったことは、初めて。
なぜわかったのかも不思議だし、怖かったが、それよりも、何が起こるかわかったのに何も出来なかった無力感に、私はただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
コメント
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寺田くん!そして助けに向かった鴻上さん!無事でいてほしい!!!