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「私にも、原因があったのかもしれません」
検査室の片付けを終えた夕方、口から漏れた。
慧の手が止まる。
「何の原因ですか」
「遼介の不倫です。私が仕事ばかりで、家庭を顧みなかったから」
「それを誰に言われたんですか」
「遼介と莉央。義母にも、女医は家庭を後回しにすると言われていました」
「先生自身は?」
「当直の日は家にいなかった。遼介が疲れていても、同じ医師なんだから自分で休めると思ってた。食事を作れない日も多かった」
「ご主人は成人です」
「分かっています」
「食事を用意されなければ、妻の親友や妹と関係を持つんですか」
刺すような言葉に顔を上げた。
「そんな言い方をしなくても」
「自分が悪かったことにすれば、ご主人をまだ理解できる人間にしておけますからね」
「私が楽をしていると?」
「逆です。ご主人の選択まで背負おうとしている」
「あなたに何が分かるんですか」
「二年間の裏切りを知った痛みは分かりません。ただ、先生がご主人の責任へ自分の名前を書こうとしていることは見えます」
呼吸が浅くなる。
「私は証拠を集めて、離婚の準備をして、仕事も続けています。泣いて怒鳴れば何か変わるんですか」
「変わりません」
「なら、冷静に進めるしかないでしょう」
「冷静であることと、怒りを自分へ向けることは別です」
私は作業台へ手をついた。
「あなたはいつもそう。患者の前で止めて、今度は怒れと言う。私の感情を正しい方向へ動かしたつもりですか」
「そこまで器用ではありません」
「では何?」
「本当に腹が立っています」
「私に?」
「尊敬していた医師が、夫のしたことまで自分の落ち度にしようとしていることに」
慧の声に初めて強い感情が混じった。
「先生へ厳しく言えば必ず正しいとは思っていません。今の言い方で傷つけたなら謝ります。でも、ご主人の行為はご主人の責任です」
「そんなに簡単に切り分けられない」
「簡単ではないから、何度でも分けるんです。先生の生活への不満と、不倫する選択は別だと」
一歩下がった。
「今日は帰って眠ってください。明日の手術へ影響が出るなら、上司へ連絡します」
「脅しですか」
「患者を守るためです」
「本当に嫌い」
「知っています」
腹が立ったまま実家へ帰った。
私の顔を見るなり、夕食を温める手が止まった。
「今日は、慧さんと喧嘩した?」
「どうして分かるの」
「遼介さんの話をする時とは、怒り方が違うから」
「また、私が悪くないって言われた」
「それで怒ったの?」
「分かってることを、上から言われたくなかった」
「本当に分かってる?」
母まで同じことを言う。
分かっている。何度も自分へ言い聞かせてきた。それでも、誰かに言われると責められている気がして、素直に頷けなかった。
「お母さんも、私が遼介の不倫へ責任を感じてると思う?」
「感じてるでしょう。子どもを待ったことも、当直を引き受けたことも、服を選んだことも、全部間違いだったのかと考えてる」
「考えるくらいは普通でしょう」
「考えるのはいい。でも、間違いだったことにすれば、次から何も大切にできなくなるよ」
父の遺影へ目を向けた。
「お父さんが受診を遅らせた時、私はもっと強く病院へ連れていけばよかったと何年も思った」
「お父さんの病気は、お母さんのせいじゃない」
「頭では分かってた。でも、自分にできたことを探す方が、何もできなかったと認めるより楽だったの」
母が自分を責めていたことを、初めて知った。
「もし私が毎日仕事を休んで付き添っても、病気が治ったとは限らない。それでも、別の選択をした私を何度も作った」
「どうやってやめたの?」
「やめてない。考え始めたら、あの時の私には、二人の子どもと生活を守る仕事もあったと言い直す」
簡単に割り切れないから、何度でも言い直す。
私の責任と、遼介の責任は別だ。
慧に言われて腹を立てた言葉が、母の口から少し違う形で返ってきた。
「遼介さんへ不満を持たせたことが一つもない妻だったとは言わない。でも、不満を持った夫が何を選んだかまで、千紘の責任にはならない」
「私、遼介を選んだ自分まで否定したくない」
「否定しなくていい。あの時は、良いところもあったんでしょう」
「うん」
「良い人だった時間があっても、今離れる理由は消えないよ」
私は食卓へ肘をつき、顔を覆った。
怒りの下に隠れていたものが、やっと分かった。
私は、遼介を愛した過去まで間違いにしたくなかったのだ。
騙された私が悪い。見る目がなかった。そうやって自分を裁いたら、もう誰かを信じることが怖くなってしまう。
「明日、遼介へ話す」
「何を?」
「私が悪かったかを聞くんじゃない。彼が何を選んだかを確認する」
それなら録音を忘れないで、とだけ返された。
けれど、眠る前に録音を聞き返すと、慧への怒りの奥から、遼介へ向けるべき熱が浮かび上がった。
翌日、橘へ相談した上で、遼介へ面会を申し入れた。場所は人目のある病院内の面談室。会話は録音する。
「真帆との関係を始めたのは、結婚の翌年で間違いない?」
「細かい時期は覚えていない」
「沙耶さんとは、私と交際する前から?」
「仕事仲間だ」
「妊娠と中絶があった?」
遼介の眉が動く。
「誰から聞いた」
「答えて」
「昔の話だ。今の離婚とは関係ない」
「結婚後も関係を続けていたなら関係がある」
「沙耶が不安定で離れなかったんだ」
「あなたは返事をし、会い、次は産ませると約束した」
「落ち着かせるために必要だった」
いつもそうだ。
女が不安定だったから。誘われたから。安心させる必要があったから。
遼介の口から語られる自分は、誰かの感情へ対応しただけの人になる。自分が何を望んで選んだのかだけは、決して口にしない。
「交際アプリで女性と会ったのは?」
「食事をしただけだ」
「ホテル代と送金がある」
「君に男として見てもらえなかった時期があった」
「だから私のせい?」
「夫婦の問題は片方だけでは起きない」
以前の私なら、やっぱり自分にも足りないものがあったのかと考えただろう。
でも、今日は違った。
夫婦に問題があったことと、遼介が裏切りを選んだことは同じではない。もう、そこを混ぜさせない。
「夫婦関係に不満があるなら、話し合うか離婚を求めればよかった。私の親友と妹へ近づき、沙耶さんとの関係を隠し、ほかの女性へ金を払ったのはあなた」
「言い方が極端だ」
「事実を一つずつ並べているだけよ」
「全員、大人だった。合意していた」
「相手にも責任はある。だからといって、あなたの責任が消えるわけではない」
声が震えた。
恐怖ではない。怒りが指先まで熱を運んでいる。
「私が一人で生きられるから、何をしても平気だと思った?」
「そんなことは言っていない」
「医師だから仕事は続ける。家柄がなくても久世家のために働く。あなたが外で作った子どもへも理解を示す。私を、どこまで便利に使うつもりだったの」
「妻だと思っている」
「妻なら、意思を聞かなくていいの?私はあなたを愛して支えた。服を選んだことも、励ましたことも後悔していない。でも、支えた側へ裏切りの責任まで渡さないで」
「千紘」
「足りなかったのは、私の我慢じゃない。あなたが自分の選択を引き受ける覚悟よ」
謝罪はない。
代わりに、鞄から厚い封筒を出した。
「明日、親父の病院へ来てくれ。理事就任の同意書だ」
「今、この話をするの?」
「離婚すれば後継計画が崩れる。家庭の感情と病院経営を分けろ」
「私へは、都合よく分けろと言うのね」
「夫婦としての責任だ」
「夫婦を壊した人が、必要な時だけ責任を求めないで」
封筒を受け取らなかった。
「書類は弁護士へ送って」
「署名する気はないのか」
「説明も受けていないものへ署名しない」
机へ封筒を叩きつけた。
「君が拒めば、久世記念病院は立ち行かなくなる」
初めて、遼介自身の口から本音が出た。
必要なのは妻としての私ではない。病院を支える産婦人科医としての私だ。
分かっていたはずなのに、本人の口から聞くと、胸の奥がまた鈍く痛んだ。
#復讐
鬼霧宗作
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白波 灯
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コメント
1件
いやもう、この回すごかった…🥀✨ 慧さんが「先生の感情を正しい方向へ動かすつもりはない」って言いながら、千紘さんが自分を責めるクセをめちゃくちゃ見抜いてるのがグッときた。「ご主人の責任へ自分の名前を書こうとしている」って台詞、痛いほど刺さる…。 それでいて離婚話になっても、理事就任の封筒を差し出す遼介の冷たさがもうね。“必要なのは妻じゃなくて産婦人科医”って、千紘さんの存在を最後まで利用しようとしてる感じが、じわじわくる嫌な読後感だった。 でも千紘さんが受け取らなかったのが、本当に救い。 あとお母さんの「同じこと母に言われて初めて分かる」みたいな流れも自然で、慧さんに腹立ててた千紘さんがちゃんと自分の置かれてる現実と向き合う下準備になってたなって思いました。