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放課後の教室は、喧騒と沈黙が同居していた。椅子を引きずる音、鞄を机に投げる音、廊下から聞こえる誰かの笑い声。それらすべてが、遥の耳には遠い。
自分の席に座っているはずなのに、まるで教室の空気に居場所ごと取り除かれたような心地。
彼の机には、今日も誰かが描いた赤い印が残っていた。
それが口か、裂けた目か、女陰の歪んだ線かは分からない。ただ、確実に「モノ」として扱われていることだけは伝わる。
「きったな……」
隣の女子が呟いたのは、遥に向けたものではなかった。
机に残る落書きに対してでもない。
その“机に触れようとした自分の指”に対して、だ。
誰とも目を合わさず、声も出さず、遥は持っていたハンカチでそれを拭き取った。
布の繊維がひっかかる。赤インクはなかなか落ちない。
だからといって、放っておけば「気持ち悪い」と誰かが大声で言う。
消しても「やっぱり触った」と目を逸らされる。
見えない糸が、遥の周囲に網のように張られている。誰もそこに踏み入らない。近づかない。名前を呼ばない。
まるで、触れただけで「なにか」がうつるように。
教室の後ろからスマホのシャッター音がした。
「あーあ、今日も綺麗に消してる。マメ〜」
鼻にかかった声。軽やかで、残酷。
教卓の横、女子たちの一団が笑いながらスマホを覗いていた。
「これ、また“お姉さん”に送る?」
「やだ〜やめてよ〜、あの人、マジで返事してくんじゃん?『今夜、指切って懲らしめますね』ってやつ」
「やば〜ww でもさあ、ほんとにしてそうじゃない? なんか、“そういう関係”って感じしない? ね、遥くん?」
静かな教室の中、遥の名前だけが妙に響いた。
遥は顔を上げなかった。
それでも視線は感じていた。
見下され、見透かされ、背中を撫でるように注がれる視線。
誰も本気では信じていない。
でも、誰も否定もしない。
「ありそう」と思う程度で、遥を囲むには十分だった。
彼が声を出せば、気持ち悪いと返される。
黙っていれば、何かを隠していると囁かれる。
「なんかさ、あれ見てると……“無理やり”っぽいよね?」
一人の女子が囁いた。
誰の何に対してなのか、名指しはされなかった。
だが教室中が、それが“遥の家庭”か“遥の身体”の話であると即座に理解していた。
「夜中、泣いてそう……」
「てか、“鳴かされて”そう……」
教室の空気が変わった。笑いは小さくなり、声の代わりに視線が重くなった。
遥は立ち上がった。
だが、それは逃げるためではない。机を拭くために屈んだ拍子、椅子が少しだけ後ろへ動いた。その音で、数人が顔をしかめた。
「あ、立った……」
「また“足”見えちゃうじゃん」
「誰の好み?」
誰も遥の足元など見ていない。だが、想像だけで“消費”された。
そこに身体がある。それだけで、彼は軽蔑の対象にされた。
次のチャイムが鳴った瞬間、クラスの空気は一斉に跳ね上がった。
誰もが、遥がそこにいることを“忘れたフリ”をしながら席を立つ。
遥だけが、立ち上がれない。
机の落書きも、誰かのシャッター音も、女子たちの嘲りも、すべてが張りついたまま。皮膚の裏に。
彼は自分の指を見た。
机を拭いたあの布の、赤い染みが爪の間に滲んでいた。
何を拭いたのか、もう誰にもわからない。