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玉座の間に飛び込んできたのは、皇后だった。
「は、母上ぇ……!」
母親からはすでに見限られたと考えていたのか、思いがけない助けにヨハンセンは涙ぐむ。すべてを失ったと諦めかけていた彼にとって、ここにきて皇后の存在が一筋の希望となったようだ。
しかし皇后は息子を一瞥もすることなくメリーティアをにらみつけ、それから皇帝の前へ進み出た。
「そなたの謁見を許した覚えはないが?」
ケイリクスの絶対零度のまなざしを真正面から受け止めて、皇后は果敢に声を上げる。
「陛下、これはあんまりですわ。ヨハンセンはそこの女に惑わされたのです! 罰すべきはメリーティア・ハイゼンベルグであり、ヨハンセンではございません!」
「彼女は部屋にいただけだ。ヨハンセンは物理的に拘束されていたわけでもない。領主として、皇子としての責任を放棄したのもすべてヨハンセン自身の判断だ。よって、罰を下されるべきはヨハンセンである」
「陛下は私情でその女をかばっておられる! 息子にその女を取られたのがそんなに悔しいのですか! 血を分けた息子よりもその女が大事ですか! あなたに人の心はないのですか……!」
皇后が金切り声でまくしたてると、ケイリクスは片眉を跳ね上げて目を眇めた。
あまりに的外れなことを得意げに言われ、大声で笑ってしまいそうなのを我慢しているような顔だ。
皇后はケイリクスを誤解している。
メリーティアがヨハンセンと身体の関係を持とうと、彼は悔しさなど感じていないはずだ。
例えるなら、蝶が無数に咲いた中から適当に花の蜜を吸って自由にひらひらと飛んでいるぶんにはかまわないけれど、たった一輪だけを選んで蜜を吸えば、途端にその花も蝶の羽もズタズタにしたくなる――それがケイリクスという男であった。
もしメリーティアが本気でヨハンセンを愛したなら、彼はたちまち息子を殺していただろう。
これまでグウェンダルの命を虎視眈々と狙っていたように。
人の道を説くのも無意味だ。
むしろこれまで一度でもケイリクスが人の心とやらを持っていると感じたことがあったのか、と皇后に問いたい。血を分けた息子と言っても所詮は他人で、心底どうでもいいと思っていることくらい付き合いの長くないメリーティアでも知っている。
恋をした瞬間から、ケイリクスの世界は自分とメリーティアだけで回っているのだ。
きっと、それまでは自分ひとりが世界だっただろう。
「陛下、ヨハンセンへの罰は撤回してくださいませ! 皇籍から抜かれるほどの過ちを犯したとは言えません。笑っておられないでその女にも罰をお与えください!」
「ヨハンセンはアシム王国の王太子を怒らせた。珍しい香辛料や良質な絹などが特産で我が帝国には欠かせない大事な貿易相手だ。そしてかの国から大型船と石油を仕入れようというこのときに、ヨハンセンがしでかしてくれたおかげで関税が倍になってしまった。今後、半永久的にだ。それをそなたは大した過ちではないと申すのか?」
「……っヨハンセンだけが罰されることが納得いきませんわ! その女にも罰をお与えください! さすればヨハンセンの罪も軽くなりましょう!」
「罪もないのに罰を与えろと? ――あぁでも、美しさが罪と言うなら、メリーティアはこの世で最も重い刑に処されるであろうな」
ケイリクスは場違いにくつくつと笑った。
メリーティアほどの美女に惑わされたのだから、ヨハンセンも本望だろうと言いたげに。
「――グウェンダル、ヨハンセンを城から放り出せ」
ケイリクスからの命令を受け、グウェンダルはヨハンセンを担ぎ上げる。
ヨハンセンは四肢をばたつかせて抵抗しながら母親に手を伸ばすが、彼女が振り返ることはなかった。
「お待ちください陛下……っ!」
食い下がる皇后にケイリクスは冷ややかな目を向ける。
「あまりしつこいとそなたも放り出すぞ」
「ヨハンセンを廃嫡するというなら、わたくしとの間にもうひとり男児を成してください! どうか、どうかお願いです……」
皇后の言葉を聞いて、必死に足掻いていたヨハンセンはぴたりと動きを止めた。
母が必要としているのは〝ヨハンセン〟という個人ではなく、自分に権力を与えてくれる〝皇子〟なのだと思い知らされたらしい。
わかっていたはずなのに一瞬でも期待してしまった彼が愚かで惨めだった。
グウェンダルの服を握り締めて涙を流すヨハンセンは、静かに玉座の間から連れ出されていく。
その間も、皇后はケイリクスのみを見ていた。
「余は美しい女しか抱かない。去れ」
「……っわたくしは、わたくしは! 皇后でございます!」
「それがどうした。余が皇帝だ。余が帝国だ。余が法だ。そなたなど取るに足らない存在だと心得ておけ。大人しくしているならその席には座らせておいてやろう」
「…………ッ」
皇后は屈辱に染まった顔でケイリクスに背を向ける。
メリーティアの隣を通り過ぎる際に怨念のこもったまなざしを向けてきた。
皇后モナ・ヘイスティン・ヴェドニア。
メリーティアの家族を殺し、グウェンダルを処刑台に立たせた女。
(次はあなたの番よ)
負けじとにらみ返すと、モナは彼女の赤髪と同じくらい顔を真っ赤にして怒りを露わにした。
「メリーティア」
皇后の怒りから守るかのように、優しく甘い声でケイリクスに呼ばれる。
メリーティアは顔を上げてきれいに微笑んだ。
「一度家に帰るかい? 馬車を用意させよう」
「お気遣いありがとうございます、陛下」
「いいんだよ。気をつけて帰りなさい」
「また会えるのを楽しみにしております」
「ああ、そう遠くないうちに」
ケイリクスが手を打ち鳴らすと侍従が飛んでくる。
メリーティアはすぐさまメイドたちに囲まれて別室へ連れて行かれ、真新しいドレスに着替えさせられた。やたらとサイズがぴったりなことは深く考えたくない。
そして約二カ月ぶりにハイゼンベルグ家のタウンハウスに帰るのだった。