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#恋愛
第7話 消される電波
その夜は、はじまる前から静かすぎた。
食堂で鍋をかき回す音も、通路で布を絞る音も、いつもより一段低いところへ沈んでいる。誰かが笑いかけても、すぐに半分だけで終わる。昨日の夜、意味ではない音が通じた。その余韻が、拠点のあちこちへ薄く残っていた。
残っているのに、みんな少しだけ触れ方を迷っている。
ナミオはその空気の中を、ラジカセを抱えて歩いた。
胸の前の箱はいつもと同じ重さだ。傷だらけの角も、別の鉄で継いだ持ち手も、赤い砂の入りこんだ溝も変わらない。なのに、今夜はそれが少しだけ目立つ気がする。通路ですれ違う人の目が、一瞬そちらへ落ちる。その一瞬だけで、何かが昨日までと違うとわかる。
発信室の前には、すでにミツがいた。
細い体をまっすぐに立て、通信板ではなく、戸の横へ新しく打ちつけられた小さな板を見ている。こめかみの短い毛が灯りの揺れで少し浮き、喉の近くの小さな泥化の跡が、呼吸で浅く動く。
板には短い字が刻まれていた。
通常通信外の送信禁止。
記録なき混入禁止。
異常観測は管理下にて実施。
ナミオは足を止めた。
「……増えてる」
ミツは振り向く。
その目は冷たいわけではなかった。
けれど、やさしくもなかった。
「朝に決まった」
「誰が」
「通信の持ち回りで」
「持ち回りって、ここで?」
「ここだけじゃない」
ナミオの胸の奥が少し冷える。
「向こうも?」
「少なくとも、共有はした」
「共有って」
ミツは板から手を離し、まっすぐナミオを見る。
「昨日のことが、軽く済まなくなったってこと」
その言い方で、ナミオは返す言葉を少し失った。
軽く済まなくなった。
たしかに、そうなのかもしれない。
意味ではない音が通じた。
しかも遠い自治区へ届き、理解された。
理解されたなら、もうただの変な遊びではいられない。
その理屈はわかる。
でも、わかるのと納得するのは、別だった。
「俺のせい?」
「あなただけのせいじゃない」
ミツは言う。
「でも、あなたの音がきっかけ」
その時、後ろからカザンが来た。
首の太い影が灯りを少し押し、鼻筋の横の浅い傷だけ先に動く。
「始まる前から重いな」
板を見て、すぐ顔をしかめる。
「もう打ったのか」
「朝に」
ミツが答える。
「向こうにも?」
「うん」
カザンは短く息を吐いた。
「早いな」
「早くしないと遅いから」
トウヤも少し遅れてやってきた。
耳にかかる髪をかき上げ、眠そうな目で板を読む。けれど読み終わる頃には、その目も少し起きていた。
「禁止、かあ」
「短いだろ」
カザンが言う。
「短い言葉って重いよな」
トウヤは戸の横へ額を軽く当てた。
「じゃあ、もう混ぜられないんだ」
ナミオは答えない。
自分で答えると、はっきりしすぎる気がした。
ユラはそのあとに来た。
肩でそろえた髪をざっと布で結び、長い袖の中へ指を隠している。板を見るなり、目だけが少し強くなる。
「消された感じする」
誰もすぐには返事をしなかった。
その言い方がいちばん近かったからだ。
まだ送ったものが消えたわけじゃない。
記録は残っている。
板にも残った。
でも、これから先の道だけ先に塞がれた。
「消される前に残ったから、ましかも」
トウヤがぼそりと言う。
「ましって何だよ」
ナミオは小さく返した。
「完全に無かったことになるより」
トウヤは壁に背をつけたまま言う。
「怖がられてる方が、まだ残ってる」
その考え方は嫌いじゃなかった。
けれど、今のナミオにはうまく飲み込めない。
発信室の中では、ハジメが送受信台の金具を確かめていた。
痩せた手の甲に細かな古い傷がいくつも残り、額の薄い布の下で目だけが静かに動いている。ナミオが戸口に立ったのを見ると、ほんの少しだけ顎を引いた。
「見たか」
「見た」
「予想通りだ」
「予想してたの」
「昨日の返り方でな」
ハジメは送受信台の側面へ指を当てる。
「通じたら、管理したくなる」
「なんで」
「秩序は、わからないものより、わかったものを怖がる」
ナミオは少し黙った。
昨日、自治区のキリはたしかに理解した。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
揺れも送れ。
そのやり取りは、今も耳の奥に残っている。
「じゃあ、もう終わり?」
ナミオが聞くと、ハジメはすぐには答えなかった。
「終わりにしたい者はいる」
「ハジメは」
「終わらせるには早いと思ってる」
それだけ聞いて、ナミオは少しだけ息を吐いた。
完全にひとりではない。
そう思うだけで、胸の冷えは少し引く。
発電輪が回り始めた。
カザンとトウヤが左右へつく。
床がわずかに震え、針が起きる。
ミツが板を持って席につく。
ナミオは昨日よりさらに後ろへ立たされた。
ラジカセは抱えたまま。
膝へ置くことも許されず、そのまま腕の中で角ばっている。
通信はいつも通り始まる。
アメリカ。
大中国。
ロピ。
中東。
報告は短い。
むしろ、いつもより短い。
余計な私語が減っている。
昨日のあとだからか、誰も少し探りながら打っている感じがあった。
それでも、ロピからひとつだけ崩れた私語が来た。
今日、空はただの空。
トウヤが輪を回しながら、ほんの少しだけ笑う。
「よかったな」
カザンが横で低く言う。
「そうだな」
中東からは、いつもの乾いた打音で短く返る。
観測継続。
管理、理解。
その最後の二語が、やけに真っ直ぐだった。
ミツはそれを板へ刻み、それ以上膨らませない。
打ち返すのは必要な分だけ。
余計な道を作らないように、指先が少しだけ固くなっているのが、後ろからでもわかった。
最後に自治区へ呼びかける。
間が長い。
位置が定まっていないのか、向こうも考えているのか。
発信室の空気が、その間だけ細く伸びる。
ようやく返ってきた打音は、やはり少し歩いていた。
現在地、伏せる。
中継、可能。
耳、無事。
昨日と似ている。
似ているのに、昨日より少しだけよそよそしい。
ナミオはラジカセの角を強く掴んだ。
ミツが短く通常報告を返す。
水位。
地下菜。
輪の摩耗。
異常なし。
そのあと、ほんの一拍。
発信室の誰もが、その一拍へ耳を置いた気がした。
ミツは結局、別件ありとは打たなかった。
代わりに自治区から先に来た。
半分歌、今夜は無しか。
ナミオの喉がきゅっと締まる。
キリだ。
あの打ち方だ。
少し笑っているような間。
でも、その軽さの下に、昨日の続きがちゃんとある。
ミツの指が止まる。
規定上、返してはいけない。
返せば通常通信外になる。
返さなければ、昨日と今日のあいだに壁が立つ。
発信室の空気が一瞬だけ固まる。
ハジメが壁際で針を見ている。
見ているだけなのに、今はその視線が重い。
カザンの腕の筋が浮く。
トウヤは輪を回しながら、わずかに唇を噛む。
ミツは打たない。
そのまま、通常の終端確認へ移ろうとする。
ナミオの胸の奥で、何かが立ち上がる。
「待って」
声が出た。
すぐにミツが振り向く。
「静かに」
「でも」
「だめ」
「向こうが」
「だめ」
その一語は短く強い。
ナミオは一歩だけ前へ出る。
ラジカセが腕の中でずれる。
「一語だけでいい」
「だめ」
「形だけ」
「だめ」
「なんで」
ミツの目がはっきりと鋭くなる。
「通信の秩序が先だから」
その言葉が、発信室の壁へ当たって返った。
秩序。
ナミオはそれを聞きながら、昨日までと今日のあいだにある見えない板を見た気がした。
秩序。
水位。
発電。
外壁。
病人。
摩耗。
中継。
そこへ混ざった意味ではない音は、たしかに異物だった。
異物だったのに通じた。
通じたからこそ、いま押し戻される。
自治区から、もう一度だけ打音が来る。
聞いている。
短い。
それだけ。
キリは待っている。
待っているけれど、押しつけてはいない。
その遠い気配が、かえってナミオの胸をきつく締めた。
ミツは返さなかった。
終端確認。
通常終了。
針が伏せる。
輪が止まる。
発信室に残るのは、人の呼吸と、返されなかった一語だけだった。
聞いている。
ナミオはラジカセを抱えたまま立っていた。
足が動かない。
ミツも席から立たない。
板の上に目を落としたまま、喉元の小さな泥化跡だけが呼吸に合わせて動いている。
「返せたろ」
ナミオが言った。
誰に向けたというより、部屋全体へこぼれた声だった。
ミツはすぐには顔を上げない。
「返さない方がよかった」
「なんで」
「そう決めたから」
「誰が」
「ここが」
ナミオは少し笑いそうになって、できなかった。
「ここ、って何だよ」
ミツがやっと顔を上げる。
疲れている。
でも、それだけじゃない。
守る側へ立った人の顔だった。
「毎日、同じ時間に同じように届くこと」
その言い方に、誰もすぐには口を挟めなかった。
カザンがようやく輪から手を離し、肩を回す。
「それもわかる」
ナミオが振り向く。
「わかるの」
「わかる」
カザンは短く言う。
「ここで止まったら困るもの、いっぱいあるだろ」
水。
外壁。
病人。
川の変化。
発電。
通る荷。
赤い雨。
言葉にしなくても、それらが室内へ並ぶ。
トウヤが壁へ背をつけたまま呟く。
「でも、消えた感じした」
ユラは戸口にいた。
いつからいたのか、誰も気づかなかった。
長い袖の中へ手を隠したまま、目だけがまっすぐ起きている。
「返さないの、消したのと似てる」
ミツはその言葉に少しだけ顔をしかめた。
「消してない」
「でも切った」
ユラの返しは早い。
「向こうは聞いてたのに」
ハジメがようやく壁から離れた。
「切ったんじゃない。優先順位を戻した」
「同じだろ」
ナミオが言う。
「今は、同じに聞こえる」
ハジメは返さない。
それで、余計に正しいのだとわかった。
正しい。
でも、正しいだけではない。
そういう夜だった。
食堂では、鍋の湯気がいつもより薄く見えた。
保存食の塩気は変わらない。
地下菜も、柔らかく煮えすぎている。
それなのに、皿を持つ手が少しだけ重い。
トウヤが最初に言った。
「聞いている、って来たのにな」
誰もすぐには返さない。
ナミオは席につく前に、ラジカセをいつもより乱暴に棚へ置いた。
金具が小さく鳴る。
その音に、自分で少し驚く。
カザンが鍋からよそいながら言う。
「怒るなよ」
「怒ってない」
「怒ってる音した」
「物に当たってない」
「当たりかけてた」
ナミオは返さなかった。
ユラが袖の中で手を握る。
「私は、返してほしかった」
ミツは少し遅れて入ってきた。
板を脇に抱えたまま、細い影みたいに席へ着く。
誰の顔もすぐには見ない。
「そうだろうね」
そう言ったのは、意外にもミツだった。
ユラが目を上げる。
ミツは皿を受け取ってから、やっと続ける。
「私も、そう思わなかったわけじゃない」
ナミオがそちらを見る。
「じゃあ何で」
「だから困るんでしょう」
ミツは皿へ視線を落としたまま言う。
「返したいと思うものを返したら、いつか返さなきゃいけないものが増える」
「増えたらだめなの」
「だめな時がある」
カザンが静かに頷く。
「輪は回し続けないとだしな」
「音は腹を満たさない」
トウヤが言ってから、すぐに少し後悔した顔をした。
それが本音ではないと、みんなわかっているからだ。
音は腹を満たさない。
でも、夜を少しだけやわらかくする。
歌は残る。
意味ではない音も、昨日まではそこへ近づいていた。
それでも、通信の場では別のものが先になる。
ナミオは皿を受け取って座る。
湯気は細い。
腹は減っているのに、匙を持つ指が少し遅い。
「向こう、待ってた」
ナミオがぽつりと言う。
「わかる」
ミツは静かに返した。
「だから板に残した」
「何を」
「自治区より私語あり。応答見送り」
ナミオが顔を上げる。
「書いたの」
「消したくないから」
その言い方は、少しだけやさしかった。
全部を通したわけではない。
でも、なかったことにもしていない。
その半端さが、かえってつらい。
ユラが小さく息を吐く。
「半分残すの好きだよね」
誰に向けた言葉でもないみたいだった。
半分歌。
途中だけの歌。
呼ぶ前。
息を吸う前。
応答見送り。
この世界の残り方は、いつもどこか半分だ。
食堂の奥で、誰かが皿を重ねる音がした。
地下口の方では水を運ぶ足音が行き来している。
世界は変わらず続いている。
通信の秩序も、労働も、保存食も、明日のための作業も。
ナミオはやっと匙を口へ運んだ。
塩気が強い。
温度は低い。
けれど、飲み込まなければ夜の続きを歩けない。
「キリはまた打つかな」
トウヤが聞く。
「打つだろ」
カザンが言う。
「でも返せるかは別だな」
ユラが顔をしかめる。
「ひどい」
「ひどいけど、そういうことだろ」
カザンの声は荒くない。
むしろ疲れていた。
「守る側って、だいたいそうなる」
ミツは何も言わない。
それが肯定みたいだった。
食事が終わる頃には、みんな少し疲れていた。
体の疲れではない。
それだけなら、いつもある。
今日は違うところが重い。
ナミオは鍋が空く前に立ち上がった。
誰にも何も言わず、ラジカセを抱えて食堂を出る。
後ろで誰かが呼びかけた気がしたが、振り返らなかった。
通路はいつも通り狭い。
灯りは弱い。
壁の湿りは変わらない。
それなのに、今夜だけは少し遠く感じる。
老爺の部屋の前まで来て、一度止まる。
けれど入らない。
今は言葉にすると崩れそうだった。
そのまま見張り小屋の下まで歩く。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂は向こうに残っている。
昼の光も、泥化も、全部向こう側。
こちらには、ただ川のにおいと湿った空気と、抱えたラジカセだけがある。
ナミオはその場へ座り込んだ。
ラジカセを膝へ置く。
つまみに指をかける。
回せば、少しは鳴る。
今なら誰にも止められない。
けれど、回さなかった。
返されなかった一語が、耳の中でまだ鳴っている。
聞いている。
あの短い返事のあと、何を送ればよかったのか。
長い。
揺れ。
短い、短い。
長い。
あの形だけでも、もう一度。
たった一つでも。
でも、送れなかった。
秩序が先だから。
その言葉が嫌いになれないのも、腹が立つ。
水位も病人も外壁も、たしかに先だ。
毎日同じ時間に同じように届くことが、どれだけ大事かも知っている。
知らないわけじゃない。
だからなおさら、喉の奥がざらつく。
「いるか」
低い声がして、ナミオは顔を上げた。
ハジメだった。
額の薄い布の下で、目だけが静かにこちらを見る。
袖口まで閉じた作業着に、壁の弱い灯りが擦れている。
「来ると思った」
ナミオが言う。
「そういう顔して出たからな」
ハジメは少し離れた場所へ腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎず。
研究者らしい距離だった。
しばらく二人とも何も言わない。
川の音だけが細く流れる。
「秩序は嫌いか」
ハジメが先に聞いた。
「今は」
ナミオは答える。
「今は嫌い」
「そうか」
「ハジメは」
「必要だと思ってる」
「やっぱり」
「でも、好きではない」
その返しが少し意外で、ナミオは顔を上げた。
ハジメは川ではなく、戸の継ぎ目の暗がりを見ている。
「秩序は、たいてい何かを切る」
「じゃあ何で」
「切らないと、もっと多くが崩れる時がある」
ナミオは膝の上のラジカセを見た。
「でも、音も崩れる」
「崩れる」
「通じたのに」
「通じたからだ」
ハジメの声は低い。
「通じなければ、放っておけた」
また同じ言葉だ。
わかったものを怖がる。
理解されたから、管理したくなる。
ナミオはそれを胸の中で噛んだ。
「じゃあ、どうすればいい」
「急がない」
「急がないと消える」
「急ぐと、もっと消える」
ナミオは笑いそうになって、できなかった。
嫌な正しさだった。
「キリ、また打つかな」
「打つだろうな」
「返せないまま?」
「返す道を作るには、別の道が要る」
「何それ」
「今の道じゃだめだということだ」
ハジメはやっとナミオを見た。
「通常通信の中へ、意味ではない音を混ぜるな」
「じゃあ」
「外側に作れ」
その言葉に、ナミオの指がわずかに動く。
「外側」
「秩序は中を守る」
ハジメが言う。
「なら、外でやれ」
ナミオはしばらく何も言えなかった。
中では消される。
なら、外で。
それはたぶん正しい。
でも、簡単じゃない。
電力も時間も場所も要る。
それに、キリがいつどこで受けられるのかもわからない。
「難しい顔するな」
ハジメが言う。
「難しいだろ」
「そうだな」
それで少しだけ、胸のざらつきがほどけた。
すぐに解決する話ではない。
でも、完全に終わりでもない。
ハジメが立ち上がる。
「今夜は寝ろ」
「寝れない」
「横にはなれ」
「命令っぽい」
「そう聞こえるように言った」
ナミオはようやく少しだけ笑った。
ハジメはその顔を見て、何も言わずに戻っていく。
ナミオはひとりになってから、やっとラジカセのつまみに触れた。
でも回さない。
ただ、角を撫でる。
聞いている。
返されなかった一語は、消されなかった。
板にも残った。
耳にも残った。
遠い自治区の少女が、今夜もどこかで受信具へ手を置いているかもしれない。
少し笑って見える口元で、返らなかった空白を聞いているかもしれない。
ナミオは目を閉じた。
消された電波。
そう思うと、胸の奥が少し痛む。
でも、完全には消えていない。
消されかけた。
押し戻された。
秩序に負けた。
そこまでだ。
負けたままで終わるかどうかは、まだ今夜では決まらない。
通路の向こうで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りが残るあいだ、ナミオの耳にはまだ、返されなかった音が静かに鳴っていた。
聞いている。
その短い一語が、消されたはずの電波の代わりに、今夜いちばん長く残っていた。
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